抒情画 – 竹久夢二

着物の女(1933年、ヨーロッパ滞在中に制作)

抒情画 – 竹久夢二

数多くの抒情的な美人画を残した作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正ロマンを代表する画家として独特な美意識を世に送った竹久夢二は、明治17(1884)年9月16日に岡山県瀬戸内市邑久町(おくちょう)に誕生しました。

明治38年(1905)に初めて夢二と名乗った竹久茂次郎は、同年、早稲田実業学校専攻科を中退。友人・荒畑寒村の紹介で、幸徳秋水や堺利彦らの平民社の出版する『直言』にコマ絵が掲載され、その後、『平民新聞』などに風刺画をよせて行きました。初期活動期に社会主義に傾倒した夢二は、最期まで反戦を唱えた芸術家でした。

大きな目を持つ女性の描写は、少女漫画にも大きな影響を与えましたが、夢二式美人の憂いを含んだ目、頼りなげな撫で肩、細く長い不安定な姿体は、戦争の足音が次第に高まる混沌とした時代を代弁するものでもあったからこそ、大衆に熱烈な支持を得たのです。

竹久夢二の生家
夢二の生家 夢二は一世を風靡した画家ですが、生涯に渡って57作の書籍を出版した作家でもありました。詩人を夢み、絵で詩を描いて見たことから、画家としての歩みが始まったのです。

目次

たまき

夢二とたまき

夢二は23歳のとき、絵葉書屋を営んでいた岸他万喜(たまき)に惚れ込み、毎日通い詰めて口説いたすえに結婚をしました。そして読売新聞社に入社して時事スケッチを担当しました。しかし2年後に離婚。それでも再び同棲、再び別居と縁は途切れることなく続きました。いく人もの女性と浮名を流した夢二ですが、婚姻した女性は、未亡人で3つ年上だったたまきだけでした。たまきは金沢地方裁判所所長の娘で、18歳で美大出身の日本画家と結婚し二児を設けましたが夫が急死したために、子供を預け早稲田鶴巻町に絵葉書店「つるや」を開業していたのです。

明治42年(1909)、最初の画集『夢二画集 春の巻』を刊行した夢二は、一躍売れっ子となり、その扉裏の献辞に「この集を別れたる眼の大きな人におくる」と記しました。その年、協議離婚したたまきにおくった言葉です。

それでも翌年の明治43年(1910)には寄りを戻し、長男の虹之助を伴い、房総方面に旅行をしました。その旅行中に夢二は「お島さん」と淡い恋をして、『宵待草』を発想したのでした。

その翌年の明治44年(1911)、次男・不二彦が誕生しましたがたまきとは別居することになりました。それでも、大正3(1914)年には、夢二は自分のデザインした小間物をあつかう「港屋絵草紙店」を日本橋呉服町に開き、たまきを店主します。そこに画学生だった宮内省御用達の紙商の娘、笠井彦乃が夢二に憧れて頻繁に通うようになりました。そして夢二と恋仲になるのです。

その一方で、留守がちの夢二の下絵描きなどを手伝っていた18歳の東郷青児と31歳のたまきの仲を夢二は疑い、たまきを旅先の新潟と富山の県境の泊温泉近くの海岸に呼び出して責め立て、短刀を突きつけて一晩中引き回し、顔を五寸ほど切るに及んだのです。翌日も怒りは収まらず、左腕を刺し、骨に通った刀が抜けず、血が止まるまでハンカチで縛って止血し、看視につけた知人を電話で呼ぶ始末。それでも刀が抜けず、たまき自身が抜いたのでした。

こうして二人の関係にとうとう終止符が打たれますが、翌年の大正5年(1916)、たまきは夢二の三男、草一を出産しました。夢二、32歳。

竹久夢二の日本画
日本画 左:水竹居(1933年ベルリンで制作) 中:春宵 為白川夫人(1932年、カリフォルニアで制作) 右:晩春感傷(昭和初期)

彦乃

夢二と彦乃
右:金沢の湯涌温泉 大正7年 写真は7歳の不二彦が撮影

大正6(1917)年、親の反対を押し切り、京都の高台寺近くで夢二は彦乃と同棲をはじめました。けれども大正7年(1918)に九州旅行中の夢二を追う途中、彦乃は別府温泉で結核を発病。父親に連れ戻され、東京・御茶ノ水の順天堂医院に入院したまま、大正9年(1920)わずか25歳で生涯を閉じました。夢二は本郷菊富士ホテルに移っていましたが、面会を遮断されていました。

『彦乃日記』をのこすほど、別離に心を痛めた夢二は、彦乃の面影を持つ帝劇女優の桜井八重子に恋文のような手紙を出し続け、八重子も菊富士ホテルを訪ねました。

それから4年後、夢二は新聞に連載小説『秘薬紫雪』を掲載しました。死んだと思った幼馴染が「紫雪」という薬を飲んで息を吹き返し、2人は晴れて恋人となるという物語です。彦乃への思いを投影したといわれています。

ちなみに紫雪(しせつ)は、奈良の正倉院に収められた「種々薬帳」に載っている薬です。天平勝宝8歳(756)、光明皇后が60種の薬物を東大寺大仏に献納した際の目録に記載されています。気付け、滋養強壮、解熱に効果があるとされ、実際に作られていました。原料には薬草などの他に、黄金の小判100両や石類が使われました。中国古代の神仙思想から発展した道教の長生術の一つに金を使った錬丹術があり、不老不死を得ることができると考えられていたのです。

お葉

夢二とお葉
渋谷での暮らし

大正8年(1919)、彦乃と引き離され絵筆をとれないほど憔悴していた夢二を気遣う友人たちの紹介で、夢二のモデルをするようになったお葉。秋田出身のお葉は12歳から東京美術学校や藤島武二の専業モデルでした。また、15歳まで責め絵師・伊藤晴雨の裸婦モデルで愛人でもありました。

お葉(佐々木カネヨ)とは、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲する仲になり、渋谷で暮らしはじめました。大正13年(1924)には、夢二が設計した世田谷松原の「少年山荘」(山帰来荘)に一緒に移り住み、一児をもうけたのですが、夭折してしまいました。翌14年、作家・山田順子と交渉を持ち、お葉は自殺を図り、半年後に別離をします。後に、医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごしました。お葉と別れた後、夢二は順子とも短くして別れることになりました。その順子の若かりし頃の面影は、人を恍惚の境に茫然自失させるほどの美貌であったと、交流のあった作家・吉屋信子は伝えています。

欧米への旅

竹久夢二とイラスト

海の彼方に憧れた夢二の最晩年は、大正デモクラシーの衰退と軍事政策が台頭する日本をとうとう離れ、アメリカとヨーロッパを旅しました。それは西洋美術の最先端をより深く理解するためでした。実現しませんでしたが、日本に美術学校を設立する夢を抱いてのことだったのです。

夢二はロサンゼルスのオリンピックホテルでは個展を開催しました。ベルリンでは、バウハウスを退いた表現主義者で、アジアの思想に影響を受け「コントラスト」の概念を中心に置いたヨハネス・イッテンの私立美術学校で5ヶ月間、週に2回の講義を行いました。水墨画の授業を依頼され、「日本画の概念」を書き、平面ではなく日本の芸術における線の重要性と、線は内的思考の線形性(linearity)を表すという哲学を説きました。

竹久夢二の油彩画
油絵 左:『初恋』(1912年) 中:『黄八丈』(1931年) 右:『扇を持つ女』(1932年 ウィーンで製作)

夢二は、書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨、風呂敷、うちわ、半襟や浴衣のデザインなど機能的オブジェクトの美術デザインすなわち実用性を有する応用美術(工芸品 ユーティリティアート)を積極的に多く手掛けた作家でした。

応用美術とは、日常生活の必需品に美的な芸術性を与えた装飾美術に重複する部分が見られるインダストリーです。これはイギリスで産業革命が産み出す低質な工業製品に対する抵抗から始まりました。新たに生まれつつあった大衆文化にふさわしい生活を念頭に、芸術を加味させたデザインの創造を理念とするアーツ・アンド・クラフツ運動のなかで始まったのです。ウィリアム・モリスやジョン・ラスキンらにより近代デザイン運動の発端となったこの美術工芸運動は、その後、アール・ヌーヴォー、アール・デコを生む要因ともなりました。

竹久夢二の水彩画

水彩 左:『空高き頃』大阪の三越(1928年10月号) 中:『APL FOOL』婦人グラフの表紙絵(1926年4月号) 右:『薔薇のとげ』童謡集『凧』の口絵(1926年)


詩人でも童話作家でもあった夢二の詩『宵待草』は、曲がつけられ一世を風靡する全国的な愛唱歌となりました。夢二と同じ時代に同じ空気を吸って生きた伊藤野枝を、私は1984年に地人会公演・木村光一演出の宮本研作『美しきものの伝説』で演じたことがあります。劇中歌が散りばめられていているなかに『宵待草』がありました。夢二は登場しませんでしたが、それは彼と近しい社会主義者たちがベル・エポックと謳われながら実際には弾圧され、先の見えない閉塞の時代を理想のために「死ぬほど生きた」物語でした。

夢二の生きたノスタルジックな愛おしく狂おしい時代は、哀愁とやるせなさがこもごもと交錯するなかに、健気で一途、不器用な男たちと女たちが文化を彩り、線香花火の火花のようにパッと輝いて消えていった、そんな儚い面影を私たちの心に残像を落として締め付けるのです。

夢二は昭和9年(1934)帰国後に結核を患い、49歳でこの世を去りました。たまきは、結核療養中の夢二を信州まで見舞い、亡き後も終生彼を慕い続けたといわれています。

関連記事

特集記事

TOP