白梅 – 令和観照

下村観山『弱法師』大正四年1915-重要文化財

小さな白梅を庭に植え、花も咲いたのですが、一年で枯れてしまいました。育たなかったのは植木屋さん曰く、日陰だったせいと言っていましたが、残念な思いをしたことがあります。白梅の香りの本当にすばらしく、清涼感があり馥郁(ふくいく)として高雅、と言えばよいでしょうか・・。えも言われぬエレガントな匂いをあたり一面に香らせます。

今は日本の元号が令和ですが、この「令和」の典拠と白梅の関係を今日は綴ってみようと思います。

令和は、孝徳天皇即位のときから始まった最初の大化から数えて248番目となりますが、この度の元号は初めて日本の古典からの典拠ということで話題になりましたね。それも日本神話や古代の歴史書『古事記』『日本書紀』ではなく、同じ奈良時代に成立したとはいえ和歌集からの出典ということで高い関心が寄せられました。

令和は『万葉集』から選ばれました。

みなさんは万葉集を見ますか?わたしは手紙を綴るとき、はじめに季節の挨拶をしるしますが、それを和歌から選んでいます。和歌のひとつ短歌は、五七五七七という短いリズムにのせ、詠み人の自然と一体になった素朴な心が込められているので、それを口にするとその思いがこちらにも移ってきて、その情景や思いが彷彿とされ心に沁み入ります。

万葉集』には、さまざまな人の歌が載せられ皇族、貴族、中・下級官人、防人、庶民、農民、こつじきまで身分を問わず、貧富を問わず、男女を問わず一同が歌集の中でおもむくままに自由に歌っています。差別無く平和的で民主的でもあり、精神性の高い編纂物が世界にあったでしょうか。万葉集には、いにしへ人の理想的な意義が含まれているのですね。日本人であることに、誇りに感じますね!

令和の典拠の句は、「于時、初春月、氣淑風」。

これは大伴旅人(665〜731)が、天平二年正月十三日に催した有名な梅の花の歌宴で詠まれた三十二首の和歌の序文とした漢詩の句です。

6世紀の梁の昭明太子編纂の詩文集『文選(もんぜん)』巻15「志」部の張衡(ちょうこう)「帰田賦」にも、令和の文字を見ることができます。

「於是仲春月時気清」。

また大伴旅人には、晋の王羲之が蘭亭で催した曲水の宴の序文『蘭亭序』や初唐詩序の構成や語句にも学んだ点が多く見られますが、これは万葉集は8世紀末期の奈良時代の終わりに成立しましたが、当時の日本は唐文化の影響を多分に享受した時代だったからです。

これは優劣の問題ではなく、いつも時代であっても、よいものはミメーシス(模倣)されて、そこに新たな解釈が加わったりしながら創り出されるものなのですね。そうすることによって、文化は絶えることなく新たな価値がそこに生まれて、古代から現在までそして未来へと人心と芸術を蘇らせるように受け継がれて行くのですね。それが、霊性を賜るということではないでしょうか。文明は滅んでも文化は変貌しながら生き続けるものなのですね。

「万葉集 巻五」出典の序文「梅の花 三十二首の序文」の作者は大伴旅人とされていますが、山上憶良説・某官人説などもあるようですが、昔々のことなので真偽のほどはともかく、歌の心を味わってみたいと思います。

【原文】

梅花謌卅二首并序。

天平二年正月十三日、

萃于帥老之宅、申宴會也。

于時、初春月、氣淑風

梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。 

加以、曙嶺移雲、

松掛羅而傾盖、夕岫結霧、

鳥封穀而迷林。

庭舞新蝶、空歸故鴈。

於是盖天坐地、促膝飛觴、

忘言一室之裏、開衿煙霞之外、

淡然自放、快然自足。

若非翰苑、何以濾情。

詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。

宜賦園梅聊成短詠。

『雪月花図』冷泉為恭  江戸後期 出光美術館蔵

【現在語 私訳】

梅花の歌 三十二首 序文付き

天平二年 正月 十三日、帥老邸宅に集い宴を催した 

時は初春の善き日 気はこころよく風はやわらいで

梅は鏡前の白粉で化粧し 蘭の馨しいおびもののように香る

のみならず曙の峰に雲が移り 松は薄絹を纏い衣笠を傾け

山の窪みに霧が立ち込め 鳥はその霧の中に閉じ込められて 林に迷う

庭に初春を告げる蝶が舞い 空には去年来た雁が帰って行く

天の屋根の下 土に座し 膝を交えて酒盃をめぐらそう

楽しさのため室の中に言葉を忘れる 外に煙る霞に襟をゆるめ

各人が淡々と自由に心を解き放てば それで十分ではないか

ここに満ちてくる情感を詠まず 何をもってこの情趣を表せよう

古き宮体詩に落梅の篇があるが 古と今とに隔たりがあるだろうか

よろしきに従い梅の園の落梅を 愉しみ短歌に詠もうではないか


『芦雁図』伊藤若冲 江戸中期 宮内庁三の丸尚蔵館

「梅花歌 序」に記された内容は、天平2年(730)1月13日(新暦に直すと2月13日頃)の新春を祝う歌会始の催しの趣旨とそれに際して思いを漢詩にしたためたものです。

歌宴の題は「梅の花を詠む」というもので、めでたい日を祝う喜びが伝わってきます。清々しい年の始めに気の合う仲間が集いうるわしいよき日を迎え楽しむための趣向として、集った各人がそれぞれに梅の花を愛でその賛美の歌を、誰をも一目で虜にしてしまった異国の芳しい花の貴婦人ともいえる梅花に捧げ、喜びを皆で分かち合おうではないかと旅人は呼びかけました。ここには都を離れて愁いに沈む望郷的沈思は振り払われて見えません。

序文の後には三十二首の和歌が続き、そのあとにそれ以外、故郷を思う二首が記され、また追加して梅の歌に和える四首が載せられています。

【万葉仮名】

和何則能尓 宇米能波奈知流

比佐可多能阿米欲里由吉能 

那何列久流加母   主人

____

我が園に 梅の花散る 久方の

天より雪の 流れくるかも   主人

真白く神秘的で美しい白梅が、雪のように降っているのです。旅人の理想とした中国詩文「落梅の篇」「園梅の賦」は、落梅の鑑賞とその花見であり春を迎えた悦びのハレを請う歌詠みでした。落梅は賞美で、女性に恋心を誘発させるトリガーなのです。

手折って髪に飾る(挿頭し)、袂に入れて香りを楽しむ、盃に浮かべてほろ酔うなど、これらは新春の梅園で興じた野遊びです。

さて、ここまで見てきた落梅とは対照的な六朝時代以前の古楽府にも「梅花落」があります。それは、辺境に赴いた者の望郷の念とその帰りを待ち侘びる婦人の哀れが込められた落梅です。いにしえ人が梅歌に託した想いはさまざまでしたが、梅は日本へは奈良時代に中国から渡来しエリートたちがなぜそれほどまでに熱狂したのか想像する以外にはないのですが、もたらされた梅は雪より白い神秘的な白梅でした。

「左近の桜、右近の橘」は定型として膾炙していますが、その始まりは桓武天皇で、内裏紫宸殿南庭の「左近の梅」だったのです。紅梅は白梅より1世紀以上経った9世紀頃に伝来したと見られています。雪のように美しい色彩的感覚、雪のように舞い落ちる視覚的効果、幽香な嗅覚的作用のどれもが宮廷貴族の風雅を刺激しました。今では日本に深く根付き、厳しい冬の時期に逸早く早春を告げる花として広く親しまれています。また見目麗しいだけではなく、清々しい芳香からも魅了して、心に安らぎを与えてくれます。

それでは日本において梅の初だしはいつだったのでしょうか?『万葉集』は旅人の子・大伴家持の編纂により、延暦4年(785)の成立と推測できますが、梅が登場した最初の日本の文献は、それより30年程前で飛鳥時代に成立した葛野王(かどののおおきみ)『懐風藻』の「春日翫鶯梅」のようです。

春日翫鶯梅

聊乘休假景

入苑望青陽

開素靨 

弄嬌聲

對比開懷抱

優足暢愁情

不知老將至

但事酌春觴

_________

【 春の日に鶯が梅の木で遊ぶ 】

聊(いささか)休假の景に乘り

苑に入つて青陽を望む

素梅素靨を開き

嬌鴬嬌声を弄ぶ。

此に対かひて懐抱を開けば

優に愁情を暢ぶるに足る。

老の将に至らむとすることを知らず

但春觴を酌むを事とするのみ。

「白梅はえくぼを開いて咲き綻び美しい鶯は艶やかにさえずっている」

ここにすでに定番の「梅に鶯」の組み合わせがあらわれていますが、この発想は陳の詩人・江総の「梅花落」を下敷きにしています。ほかの語句も含め、この漢詩全体が初唐詩を忠実に模倣したものであることが指摘されていますが、一辺倒な判断ではこの歌が教えた貴重な役割を見誤るおそれがあります。

作者の葛野王は、弘文天皇(父天智天皇)と十市皇女(とおちのひめみこ 父天武天皇)の長子でした。また神武天皇から始まる歴代天皇の漢風諡号を撰出した淡海三船は、葛野王の孫にあたります。葛野王は、系図からも分かるように当代きっての教養人でした。中国詩をコラージュしたように配す「春日翫鶯梅」は十分な知識の集積が生んだことに注意を払うべきでしょう。宮廷文化の最先端にある者にしか成し得ない、研鑽の技巧だったのですね。

異境の梅に酔う

梅の記述というのは『古事記』『日本書紀』『風土記』にも見当たりません。『万葉集』においても前期には例がなく、後期に集中していることから白梅の伝来は7世紀末から8世紀初頭と推測できます。

『万葉集』4536首のうち、もっとも多く詠まれている花は萩で144首。2位が梅で122首。3位が桜で42首。菊は1首もありません。桜は花の代名詞です。記紀神話に登場する絶世の美女、木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤヒメ)も、衣通姫(ソトオリヒメ)も桜にたとえられているように、日本人は桜に並並ならぬ思いを今日に至るまで抱き続けてきました。けれどもこの頃は単に「花」といった場合には、梅を指したのです。異境の花に対する高貴な人の嗜好を伺うことができます。それは桜のような山の花ではなく、あくまでも皇族の庭園を彩る都会の花なのでした。在来ではなく、土着的背景のない外来のエキゾチックな花を通して、海を越えた遠い他国に熱い想いを馳せ、情熱をかき立てて焦がれたのです。異国情緒に惹かれる思いは、今も昔も変わりませんが、律令宮廷文化を担った彼らは唐風の文雅に酔いしれました。

第四十五代-聖武天皇-文武天皇の第一皇子-母は藤原不比等の娘-宮子-右:直筆31歳-中国六朝・隋・唐詩文書写鈔録-正倉院北倉-天平三年九月八日
第四十五代-聖武天皇-文武天皇の第一皇子-母は藤原不比等の娘-宮子 右:直筆31歳-中国六朝・隋・唐詩文書写鈔録-正倉院北倉-天平三年九月八日

そこに開花したのが聖武天皇の元号・天平(てんぴょう)をもって称された天平文化です。唐からの文化流入に大宰府の果たした役割は特に大きなものでした。シルクロードによってオリエントの文化や仏教風文化も浸透しましたが、それは遣唐使を通じて流入されたのでした。

吉祥天女図-国宝 右:螺鈿紫檀5絃琵琶-正倉院北倉
吉祥天女図-国宝 右:螺鈿紫檀5絃琵琶-正倉院北倉

それから1300年ほどが経ち、オクシデントの文明をも吸収した現在は、自然を凌駕した人工知能が創り出す新しい時代を迎えようとしています。それでも太陽と月が交互に経めぐる循環をかえし、白梅は、永遠に誇り高く咲くのでしょう。

白梅

トップ画像:下村観山『弱法師』大正四年1915-重要文化財

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