
あなたにとって花とはなんですか。花のない人生を考えられますか?
岡倉天心(覚三)は1863年(文久2年)-1913年(大正2年)を生きた文人で思想家で東京芸大の前身にあたる東京美術学校の事実上の初代校長です。その後、美術学校騒動により在野となった天心は、日本美術院を創設し、近代日本画を確立させます。日本の絵はそれまでは大和絵と呼ばれていました。「日本画」という名称を創始したのも天心の業績のひとつです。
美術学校騒動は、天心の色恋の私行が原因と揶揄されています。しかし本当は違います。天心は日本を取り戻したかったのです。日本独自の美を深め世界へ発信することに意義があり、西洋のものまねを断固として拒絶したために起こった内紛だったのです。
天心が生きた明治は、西洋文化を一心に取り入れ、日本の伝統的文化、精神性を忘れはじめた時代です。21世紀もその延長上にあります。
天心は、日本の培ってきたつつましく穏やかな暮らし方の技をいち早く欧米諸国に伝えました。それが『茶の本』です。

当時のマンハッタン
その中で、茶は日常のわずらわしくつまらない用事や世俗的な事柄の中で、美を崇拝する「生の術」である、と天心は語ります。
茶道は、美意識的な宗教の域に達し、社会の上下を排し、富と権力を得ようとあらそう俗悪をしりぞけ、人生の取るにたらないわずかなことの中に偉大をとらえる禅の考え方が、茶道の理想だと述べています。
茶室は、簡素で純粋の象徴です。それは茅葺き(かやぶき)の粗末な空き家(=数奇屋)に過ぎず、外界のわずらわしさを遠ざけ、しかも聖堂であると言い、
「まあ、茶でもすすろうではないか。 明るい午後の陽は竹林に映え泉水はうれしげな音をたて、松風はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えましょう。」
と、つぶやきます。

『茶庭』大橋治三 グラフィック社
日本の文化と美意識を西洋に教示した『茶の本』は、茶の湯のもつ意味と歴史を体系的に論じた最初のもので、英語で書かれアメリカで出版されました。
『The book of tea(茶の本)』は、『The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan(東洋の理想)』、『The Awakening of Japan(日本の覚醒)』に次ぐ、英文の著作の第三著にあたります。茶事を通して、東洋の極東に位置する日本の文化、芸術の本質に迫ろうとした天心の美学、その精髄がつづられています。
気概を感じるエピソードのひとつに、こんな話があります。
ボストン美術館からの招聘を受けた天心は、横山大観、菱田春草らの弟子を伴い渡米しました。街を羽織袴で闊歩しているとアメリカ人から冷やかされました。「what sort of nese are you people? Are you Chinese,or Japanese,or Javanese? (おまえたちは何という種類のニーズだ?チャイニーズ?ジャパニーズ?ジャワニーズ?)」
それに対して、天心は流暢に返答しました。「We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey? (わたしたちは日本紳士だ。あなたは何キーだ?ヤンキーかドンキーかモンキーか?)」
わたしたちは西洋に萎縮する必要などありません。だからと言って、傲慢になることもありません。自分に恥じない生き方をしていれば、そこに人種の差はないのです。
さて、「花がなくては人は生まれることも死ぬこともできない」とはどういうことかと言うと、詳しいことは文中で記しますが、花とはあなたの人生において、その節目節目に絶対に必要不可欠なものなのだと言うことです。
一瞬のうちに永遠の美を見いだす心と、そのわざを今に伝える『茶の本』。今回「第六章 花」を現代語訳に直しましたのでぜひお読みいただき、答えを見つけてください。では国境を跨ぎつつ、日本人としての誇りに思いをはせたいと思います。
目次
『茶の本』第六章「花」
花はわれらの不断の友
あなたは、春の東の空がほのかに明るくなりはじめる夜明けの薄明かりの中で、小鳥のつがいが木の間でわけのありそうな様子でささやいているとき、花のことを語っていると感じたことはありませんか。
人において花を鑑賞することは、恋愛の詩と時を同じくして起こったようです。それは無意識だからうるわしく、沈黙のために、かぐわしい花の姿でなくてどこにおとめの心のほどける様子を想像できるでしょう。
原始時代の人は、恋人に初めて花輪をささげたときに、獣の性を脱しました。 粗野な自然を超越して、人らしくなったのでした。
そして不必要なものの微妙な用途を認めたとき、人は芸術の国に入ったのです。喜びにも、悲しみにも、花は、あなたの不断の友です。
花とともに飲み、ともに食らい、ともに歌い、ともに踊り、ともに戯れる。
花を飾って結婚の式をあげ、花をもって命名の式を行います。
花がなくては死んで行くこともできません。百合の花をもって礼拝し、蓮の花をもって冥想に入り、ばらや菊花をつけ、戦列を作って突撃しました。
さらに花言葉で話そうとまで企てたのです。花がなくて、どうして生きて行かれるでしょう。
花を奪われた世界など考えてみても恐ろしい。花は病める人の枕べに慰安をもたらし、疲れた人の闇の世界に喜悦の光をもたらすものではありませんか。
その澄みきった淡い色は、ちょうど美しい子供をしみじみながめていると失われた希望が思い起こされるように、失われようとしている宇宙に対する信念を回復してくれます。
わたしたちが土に葬られるときには、わたしたちの墓の辺を、悲しみにふけりながら、ゆっくり歩いてまわるのも花です。
けれども、わたしたちは花を不断の友としながらも、いまだ獣の域を脱することから、あまり遠くないという事実をおおい隠すことことはできません。
羊の皮をむいてみれば、こころの奥の狼は、すぐにその牙をあらわすでしょう。
人は十歳で禽獣となり、二十歳で発狂し、三十路で失敗し、四十で山師となり、五十にして罪人といわれています。
わたしたちは神へ奉納するために、自然を荒らしている物質を征服したと誇っています。しかし物質こそ、わたしたちを奴隷にしていると言うことを忘れています。
わたしたちは教養や風流に名をかりて、なんという残忍な非道を行っているのでしょうか!
星の涙のしたたりのやさしい花よ、園に立って、日の光や、露の玉をたたえて歌うみつばちに会釈してうなずく花よ、おまえたちはおまえたちをまち構えている恐ろしい運命を知っているのですか。
夏のそよ風にあたって、そうしていられる間いつまでも夢をみて、風に揺られ浮かれ気分で暮らすがよい。
あすにも無慈悲な手が咽喉を取り巻くでしょう。
おまえはよじり取られ手足をひとつひとつ引きさかれ、静かな家から連れて行ってしまわれるでしょう。
そのあさましい者は、心をひきつけられる美人かもしれません。そしておまえの血でその女の指がまだ湿っている間は、「まあなんて美しい花だこと。」というかもしれません。
おまえが、無情なやつと思う者の髪の中に、閉じ込められたり、もしおまえが人であったなら、まともに見向いてくれそうにない人のボタン穴にさされたりするのが、おまえの宿命なのかもしれません。
花の宗匠
狭い器に押し込まれ、わずかのたまり水で命の衰えていく狂わんばかりの渇きを止めているのも、おまえの運命なのかもしれません。
花よ、もし御門の国にいるならば、はさみとのこぎりで身を固めた恐ろしい人にいつか会うかもしれません。
その人はみずから「生花の宗匠」と称しています。彼は医者の権利を振りかざすので、おまえは彼をきらいになるでしょう。
というのは、医者というものは犠牲になった人のわずらいを、いつも長びかせようとする者だから。
おまえたちを切ってかがめたり、ゆがめてみたり、勝手な考えでおまえたちの取るべき姿勢をきめ、途方もないおかしな姿にするでしょう。もみ療治をする者のように、おまえたちの筋肉を曲げ、骨を違わせるでしょう。
出血を止めるために、灼熱した炭でおまえたちを焦がしたり、循環を助けるためにと、からだのなかへ針金をさし込むこともあるでしょう。塩、酢、みょうばん、ときには硫酸を食事に与えることもあるでしょう。おまえたちが今にも気絶しそうなときには、煮え湯を足に注ぐこともあるでしょう。
治療を受けない場合に比べると、二週間以上も長くおまえたちの生命を保たせておくことができるのを誇りとしているです。おまえたちは捕らえられたとき、その場で殺されたほうがよくはなかっただろうか。
いったいおまえは前世で、どんな罪を犯し、現世でこんな罰を受けねばならないのでしょうか。
西洋の社会における花の消費

西洋の社会における花の浪費は、東洋の宗匠の花の扱い方よりもさらに驚きにあたいします。舞踏室や宴席を飾るために、日々切り取られ、翌日には投げ捨てられる花の数は莫大に違いないのです。一緒につないだら、一大陸を花輪で飾ることもできるでしょう。
このような花の命を全くものとも思わぬことに比べれば、花の宗匠の罪は取るに足らないものです。
少なくとも自然の経済を重んじ注意深い慮り(おもんばかり)をもってその犠牲者を選び、死後はその遺骸に敬意を表すからです。
西洋においては花を飾るのは富を表わす一時的美観の一部で、その場の思いつきであるように思われます。
これらの花は皆その騒ぎのすんだ後は、どこへ行くのでしょうか。
しおれた花が、無情にも糞土の上に捨てられているのを見るほど、哀れなものはありません。
どうして花はかくも美しく生まれて、かくも薄命なのでしょうか。
虫でも刺すことができます。おだやかな動物でも、追いつめられれば戦います。
ボンネットを飾るために羽毛をねらわれている鳥は、その追い手から飛び去ることができ、人が上着にしたいとむさぼる毛皮の獣は、人が近づけば隠れることができるのに。
これらの花はみな、その騒ぎのすんだ後はどこへ行くのでしょうか。
しおれた花が、無情にも糞土の上に捨てられているのを見るほど、哀れなものはありません。
どうして花はかくも美しく生まれて、かくも薄命なのでしょうか。
悲しいかな! 翼のある唯一の花と知られているのは蝶であって、ほかの花はみな破壊者にあってはどうすることもできないのです。
断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわたしたち無情の耳へは、決して達しはしないのです。
黙々としてわたしたちに仕え、わたしたちを愛する人々に対して、わたしたちは絶えず残忍ですが、これがために、これらの最もよき友から見捨てられるときが来るかもしれません。
あなたは野生の花が、年々少なくなってゆくのに気がつきませんか。
それは彼らの中の賢人が、人がもっと人情のあるようになるまでこの世から去れと彼らに言ってきかせたのかもしれません。たぶん彼らは天へ移住してしまったのでしょう。
東洋の花卉(かき)栽培
けれども草花を作る人には、肩を持ってもよいでしょう。
植木鉢をいじる人は、花ばさみの人よりも、はるかに人情があります。
水や日光について心配したり、寄生虫を相手に争ったり、霜を恐れたり、芽の出るのが遅いときには心配して、葉に光沢が出ると有頂天になって喜ぶ様子をうかがっているのは、楽しいものです。
東洋では草花の栽培の道は非常に古いものであって、詩人の嗜好とその愛好する草花はしばしば物語や歌にしるされました。
唐宋の時代には、陶器の発達に伴なって、草花を入れる驚くべき器が作られたのです。といっても、それは植木鉢ではなく、宝石をちりばめた御殿でした。
花ごとに仕える特使が派遣せられ、兎の毛で作ったやわらかいはけで、その葉を洗ったのです。
牡丹は、盛装した美しい侍女が水を与えるべきもの、寒梅は青い顔をして、ほっそりとした修道僧が水をやるべきものと書かれた本があります。

日本においては、足利時代に作られた『鉢の木』という能の舞があって、貧困な武士が、ある寒い夜に炉に焚く薪がないので、旅の僧を歓待するために、大事に育てた鉢の木を切る、という話です。
その僧とは、実はわが物語のハールーン・アッ=ラシード(『千夜一夜物語』などで語り継がれる全盛期のアッバース朝に君臨した偉大なる帝王)ともいうべき鎌倉幕府第五代執権・北条時頼にほかならなかったので、その犠牲は報われました。この舞は今でも必ず観客の涙を誘うものです。
弱い花を守るためには、非常な警戒をしました。
唐の玄宗皇帝は、鳥を近づけないために、花園の樹枝に小さい金の鈴をかけておきました。
春の日に宮廷の楽人を率いていで、美しい音楽で花を喜ばせたのも彼でした。
わが国のアーサー王物語の主人公ともいうべき、義経。その義経の書いたという伝説の手紙が、日本のある寺院(須磨寺)に現存しています。
それはある不思議な梅の木を守るための掲示文書で、武道・軍事などを大切なものと考える時代のおかしみを伝えています。梅花の美しさを述べたのち、「一枝を伐らば一指をきるべし。」と書いてあるのです。

岡倉天心とその生徒の橋本雅邦、横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加。
しかし植木鉢の花の場合でさえ、人の勝手気ままなことが感ぜられる気がします。なにゆえに花をそのふるさとから連れ出して、知らぬ他郷に咲かせようとするのでしょうか。
それは小鳥を籠に閉じこめて、歌わせようとするのと同じではないでしょうか。
蘭が温室で人工の熱によって息づまる思いをしながら、なつかしい南国の空を一目見たいと、あてもなくあこがれていると、だれが知り得ましょう。
茶の宗匠と生花の法則
花を理想的に愛する人は破れたまがきの前に座して、野菊と語った陶淵明(とうえんめい)や黄昏に西湖の梅花の間を逍遙しながら、真っ暗な中でわずかに漂う梅の香りの趣にわれを忘れた林和靖(りんかせい)のごとく、花の生まれ故郷に花をたずねる人々です。
周茂叔(しゅうもしゅく)は、見る夢が蓮の花の夢と混じるように、舟の中で眠ったと伝えられています。
この精神こそは、奈良朝で有名な光明皇后の御心を動かしたものであって、「折りつれば たぶさにけがるたてながら 三世の仏に 花たてまつる」とおよみになったのです。
現代語訳 [ わが手で折り取ってしまえば花が穢れる。地面に生えて咲いているそのままの姿で、三世(過去・現在・未来)の諸仏にさしあげます ]

これは満開の桜のわきを歩いたときに詠んだ歌です。「たぶさ」は手の意味で、不浄のわが身に対し、あるがままに咲く花を純潔と見たのです。
しかしあまり感傷的になることはやめましょう。おごる心をいましめ、もっと壮大な思いに至りましょう。
老子いわく 天地不仁 (天地は無慈悲)、
弘法大師いわく 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し
わたしたちはいずれに向かっても「破壊」に面するのです。
上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそが唯一の永遠です。
何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのでしょうか。
この二者は、ただ互いに相対しているものであって、ブラフマン(梵天)の昼と夜に過ぎません。
古きものの崩壊によって、あらためて作り直すことが可能となります。わたしたちは、無情な慈悲の神「死」を、種々の名前であがめてきました。
拝火教(ゾロアスター)徒が火中にむかえたものは、「すべてを呑噬(どんぜい)するもの」の影でした。今日でも神道の日本人がその前にひれ伏すところのものは、剣魂(つるぎだましい)の氷のような純潔です。神秘の火はわたしたちの弱点を焼きつくし、神聖な剣は煩悩のきずなを断ちます。
わたしたちの屍灰(しかい)の中から、天上の望みという不死鳥が現われて煩悩を脱し、いっそう高い人格が生まれいずるのです。
花をちぎることによって新たな形を生み出し、世の中の人の考えを高尚にすることができるならば、そうしてもよいのではないでしょうか。
わたしたちが花に求むるところは、ただ美に対する奉納をともにせんことにあるのみ。
「純潔」と「清楚」に身をささげることによって、その罪滅ぼしをしましょう。
こういうふうな議論の進展により、茶人たちは生花の法を定めたのです。
生花の方法
茶や花の宗匠のやり口を知っている人はだれでも、彼らが宗教的な尊敬をもって花を見ることに気がついたに違いありません。
彼らは一枝一条みだりに切り取ることをしないで、己が心に描く美的配合を目的に注意深く選択します。
必要の度を越して万一切り取るようなことがあれば、これを恥としました。
これに関連して言ってもよいと思われることは、彼らはいつも、多少でも葉があれば、これを花に添えておくということです。
というのは、彼らの目的は、花の生活の全美を表わすにあるから。
この点についてはその他の多くの点におけると同様、彼らの方法は西洋諸国に行われるものとは異なっています。かの国では、胴のない頭だけが乱雑に花瓶にさしこんであるのをよく見受けます。
茶の宗匠が花を満足に生けると、彼はそれを日本間の上座にあたる床の間に置きます。
その効果を妨げるような物はいっさい、その近くにはおきません。
たとえば一幅の絵でもその配合に何か特殊な審美的な理由がなければなりません。
花はそこに王位についた皇子のようにすわっていて、客やお弟子たちはその室に入るや、まずこれに丁寧なおじぎをしてから、始めて主人にあいさつをします。
花が色あせると宗匠はねんごろに川に流すか、丁寧に地中に埋めます。その霊を弔って、墓碑を建てることさえあります。
花道の生まれたのは十五世紀で、茶の湯の起こったのと同時らしく思われます。わが国の伝説によると、始めて花を生けたのは、昔の仏教徒であるといいます。
彼らは生物に対する限りない心やりのあまり、暴風に散らされた花を集めそれを水おけに入れたということです。
足利義政時代の大画家であり鑑定家である相阿弥は、初期における花道の大家の一人であったといわれています。御殿での贅沢な茶会を精神性を求める道に変え、侘び茶を創始した珠光(孫弟子・千利休)は、相阿弥の祖父・能阿弥の門人でした。
十六世紀の後半において、利休によって茶道が完成せられるとともに、生花も十分なる発達を遂げました。
利休およびその流れをくんだ有名な織田有楽(おだうらく)、古田織部、光悦小堀遠州、片桐石州らは新たな配合を作ろうとして互いに相競いました。
しかし茶人たちの花の尊崇は、彼らの審美的儀式の一部をなしたに過ぎないのであって、それだけが独立して別の儀式をなしてはいなかったということを忘れてはなりません。
生花は茶室にある他の美術品と同様に、装飾の全配合に従属的なものでした。「けばけばしい」花は、無情にも茶室から遠ざけられました。
茶人の生けた生花は、その本来の目的の場所から取り去れば、その趣旨を失うものです。
と言うのは、その線やつり合いは、特にその周囲のものとの配合を考えてくふうしてあるからです。
花のため花を崇拝すること
花を花という単体だけで崇拝することは、十七世紀の中葉、花の宗匠が出るようになって起こりました。
茶室とは関係のない新しい考案、新しい方法ができるようになって生まれ出た原則や流派はたくさんあります。十九世紀のある文人の言うところによれば、百以上の異なった生花の流派をあげることができるのです。
広く言えば、これら諸流は、形式派と写実派の二大流派に分かれます。
池の坊を家元とする形式派は、狩野派に相当する古典的理想主義をねらっていました。初期のこの派の宗匠の生花の記録がありますが、それは山雪や常信の花の絵を、ほとんどそのままにうつし出したものです。

メトロポリタンミュージアム公式ウェブサイト内 狩野山雪『老梅図』1646年頃
一方、写実派はその名が示すように、自然をそのモデルとして、ただそこに美的調和を表現する助けとなるような形の修正を加えただけです。ゆえにこの派の作には、浮世絵や四条派の絵をなしている気分と同じ気分が認められます。
花の宗匠
時の余裕があれば、この時代の幾多の花の宗匠の定めた生花の法則になお詳細に立ち入って、徳川時代の装飾を支配していた根本原理を明らかにすること(そうすれば明らかになると思われますが)は、興味のあることです。
彼らは導く原理(天)、従う原理(地)、和の原理(人)を述べました。
そしてこれらの原理をかたどらない生花は、没趣味な死んだ花であると考えました。また花を、正式、半正式、略式の三つの異なった姿に生ける必要を詳述しています。
第一は舞踏場へ出るものものしい服装をした花の姿を現わし、第二はゆったりとした趣のある午後服の姿を現わし、第三は閨房(けいぼう。婦人の居間)にある美しい平常着の姿を現わすともいえます。
生花の流派、形式派と写実派
わたしたちは花の宗匠の生花よりも、茶人の生花に対してひそかに同情をもちます。茶人の花は、適当に生けると芸術であって、人生と真に密接な関係を持っているから心に訴えるのです。
この流派を、写実派および形式派と対称区別して自然派と呼びたい。
茶人たちは花を選択することで、かれらのなすべきことは終わったと考え、そのほかのことは花みずからの身の上話にまかせました。

晩冬のころ茶室に入れば、野桜の小枝に蕾の椿の取り合わせてあるのを見ます。去らんとする冬のなごりと、きたらんとする春の予告を配合しているのです。
またいらいらするような暑い夏の日に昼のお茶に行って見れば、床の間の薄暗い涼しい所にかかっている花瓶には、一輪の百合を見るでしょう。
露のしたたる姿は、人生の愚かさを笑っているように思われます。
花の独奏ソロはおもしろいものですが、絵画、彫刻との協奏曲コンチェルトとなれば、その取りあわせには人をうっとりとさせるものがあります。

石州はかつて湖沼の草木を思わせるように水盤に水草を生けて、上の壁には相阿弥の描いた鴨の空を飛ぶ絵をかけました。
紹巴(じょうは)という茶人は、海辺の野花と漁家の形をした青銅の香炉に配するに、海岸のさびしい美しさを詠んだ和歌を添えました。
花物語は尽きませんが、もう一つだけ語ることにしましょう。
十六世紀には、朝顔はまだ珍しかったのです。
利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精をこめて培養しました。
利休の朝顔の名が太閤(たいこう)のお耳に達すると、太閤はそれを見たいと仰せになりました。そこで利休は朝の茶の湯へお招きをしました。
その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったのですが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えませんでした。
地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてありました。暴君はむっとした様子で、茶室へはいったのです。
しかしそこには、みごとなものが待っていました。
床の間には宋の細工の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があったのです。
こういう例を見ると、「花御供」の意味が十分にわかります。たぶん花もその真の意味を知ったでしょう。彼らは人間のような卑怯者ではないのです。
花によっては、死を誇りとするものもあるのです。たしかに日本の桜花は、風に身をまかせて落ちるとき、これを誇るものでありましょう。
吉野や嵐山のかおる桜の雪崩の前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたでしょう。
宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら「いざさらば、春よ、われらは永遠の旅に行く」というかのように。

メトロポリタンミュージアム公式ウェブサイト内 狩野常信『吉野山』
結び
いかがでしたでしょうか。婚礼に花は欠かせません。黄泉への旅立ちには、花で御霊を弔います。人生の節目に花は無くてはならない「不断のとも」です。「花の章」を読むと、一輪の花に宿る命の尊さを見る思いがいたします。美を愛で、芸術を愛でる日本人は、必ず天心に出会うはずです。
母と息子とわたしが五浦を訪ねたのは30年ほど前の冬だったと記憶しています。天心が思索の場所として自ら設計した六角堂は張り出した岩盤の上に建てられていました。眼前に広がる太平洋。打ち寄せる波が勢いよく岩に砕けて飛沫(しぶき)をあげます。天心はここで何を見つめていたのだろうと想像しました。それから庭を散策し、寒い冬の風を受けながら、天心の石碑に手にしていた水仙を手向けて、かつてここに存在した日本美術院を後にしたのを覚えています。
わたしが『茶の本』を最初に読んだのは24歳のときで、ソーントン・F・直子訳の海南書房のものでした。やさしい文体でなじみやすく、初めて手にする方にはおすすめです。今日は第六章の「花」にのみ触れましたが、近代日本美術を創始した岡倉天心の『茶の本』は、わたしの美の聖典です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

『茶の本』 岩波書店