勝海舟がひがんだ小栗忠順

小栗忠順

私は幕末の戦乱に疎いのですが、小栗忠順(幸之助)こそ、日本が近代国家として進む布石を敷いた人物だったと知り、驚いたと同時に強い関心が湧きました。渋沢栄一もたじろがせた人物だったことを、今日は備忘録しておこうと思います。明治維新の元勲に小栗忠順(ただまさ 1827~1868)の名は連ねられてはいませんが、勝海舟のライバルと見なされることが多い小栗には、目を見張らせずにはおかない慎み深い品位と功績があります。

大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と述べました。福沢諭吉 は「鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい 国のために命をかけて尽くす)の人」と評しています。また東郷平八郎は幕府側から近代化政策を行った人として評価し、小栗の遺族を招いて礼を述べ、「小栗忠順が設立した造船所のおかげで、日露戦争に勝つことができました。仁義礼智信の美徳を持った人です」と伝えました。島崎藤村は「通常、人々は腐敗した家(徳川政府)から脱出しようとします。しかし、小栗忠順は崩れかけた家にとどまり、次の世代のために仕事をするほど高貴でした」と評伝し、司馬遼太郎は「明治の父」と記しています。

それに対し勝海舟は、「誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。一口にいふと、あれは、三河武士の長所と短所を両方具へて居ったのサ。しかし度量の狭かったのはあの人のためには惜しかった」と、勝海舟『氷川清話』に残しています。

小栗又一」とは、徳川家康につかえ、姉川の戦い以来、つねに一番槍の功をたてたことから又一の名をあたえられ、小栗家当主が代々用いた名乗りですが、勝海舟は260年も前の会ったはずのない小栗家先祖によく似ていると放言しました。この言葉が後世に与えてきた影響は重く、小栗評に大きな欠陥となって今日に至っているのです。

安政7年(1860年)、小栗は井伊直弼の命により日米修好通商条約批准のため米軍艦ポーハタン号で渡米、地球を一周しました。オランダの造船所で起工された日本最初の幕府の蒸気軍艦・咸臨丸は、勝海舟も福沢諭吉も同乗しましたが、正使一行の随伴艦として海軍の練習航海も兼ねてサンフランシスコまで航海したに過ぎず、ワシントンへ小栗らが向かったのを見届けると帰途したのです。船長もアメリカ人でした。

小栗はフィラデルフィアでは交換比率の見直しの交渉に粘り強く挑み、小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明させました。この時点では比率の改定には至っていませんが、アメリカの新聞は絶賛の記事をこぞって掲載しました。

江戸幕府がペリーと結んだ日米和親条約(1854)で部分的に自由化された交易の結果、鎖国体制は崩壊しました。1858年、江戸幕府がアメリカ駐日総領事ハリスと結んだ不平等な日米修好通商条約(安政五カ国条約)で、金銀比価の違いから欧米列強へ金貨が大量に流出し、財政は困窮を極めていたのです。国際的にアジアの貿易取引に使われていたのは銀貨であるのに対して、日本は銀貨の交渉比率を基準にした金本位制度だったからです。

江戸城
「鍛冶橋御門」。橋の奥の建物は漆喰が剥がれ、江戸城の荒れた雰囲気がわかる一枚。現在の東京駅南側。明治天皇の肖像写真で知られる内田九一撮影(シェイクスピア・ギャラリー提供)

小栗は帰国後、多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼して洋式軍隊の整備を行い、1865年には横須賀製鉄所が起工、造船所も兼ねた近代工業施設をつくり上げました。

ある幕臣が、幕府の運命が逼迫する中で、費用をかけて造船所を造ってもそれが出来上がる時、幕府はどうなっているかわからないと言いました。小栗は「幕府の運命に限りがあろうとも、日本の運命には限りがない。私は幕府の臣であるから幕府のためにつくす身分ではあるけれども、結局それは日本の為であって、幕府のしたことが長く日本のためとなれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売り据え(売家)にしても土蔵付売据の方がよい。あとは野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」と諌めました。

小栗は幕府の先にある日本を見ていたのです。いずれ訪れるであろう幕府政治の終焉を予見しながらも常に日本の国のあり方を基準とし、今、そのために手がけられることに全力を尽くすことが真の武士のあるべき姿と心得ていたのです。はたして勝が放言したようにこれが度量の狭い者の考えでしょうか。なんと気高い精神であったことか、胸打たれるエピソードではありませんか。

1860年。ワシントン海軍工廠での使節団(77名):正使 新見正興(前列中央)、副使 村垣範正(前列左から3人目)、監察 小栗忠順(前列右から2人目)
1860年。ワシントン海軍工廠での使節団(77名):正使 新見正興(前列中央)、副使 村垣範正(前列左から3人目)、監察 小栗忠順(前列右から2人目)

日本初の株式会社を設立したのも小栗だったことは歴史に埋もれています。それは兵庫商社(1867年)。またこの株式会社方式で築地ホテルの建設を進め、清水組が工事と営業を引き受けました。旅籠が中心だった幕末に本格的な西洋ホテルを稼働させたのです。日本初の株式会社は坂本龍馬による亀山社中(1865年)という意見もありますが、定款や役員から見ると、それは本格的な株式会社ではありませんでした。

築地ホテル
築地ホテル

慶応二年(1866年)のパリ万博開会には、将軍・徳川慶喜の代理として弟の昭武が派遣されることになり、昭武の従者の渋沢栄一は、会計や雑務の担当として随行することになっていました。昭武は万博のあとイギリスはじめヨーロッパ各国を巡歴したのち、パリに長期留学する予定でした。

この5年間の滞在経費を心配して渋沢は小栗へ挨拶に行くと、「貴殿は面白い男だねえ。ついこの間、攘夷討幕を唱えて赤城山に挙兵し、高崎城を乗っ取り、武器を奪って幕府を倒し、横浜へ押し上げて外国人を海の向こうへ追い払う計画をしていたのに、5年も先の幕府を心配するのはおかしな話だ」と、小栗は渋沢に言いました。

過激な水戸学に傾倒していた渋沢はこの言葉に驚きました。確かにその通りの計画を進め仲間と武器を集め、決起直前で止まった経緯があったからです。それを初対面の小栗がすべて承知していたのです。

渋沢が冷や汗をかきながら「いえ…、それはもう昔の話で…」と言うと、小栗は「何を言うか、まだ1、2年前の話ではないか。まあいい、冗談だ。貴殿のように志の高い人物が昭武公を補佐してくれることは喜ばしいことだ。一生懸命、働いてくれ」と笑ってその場を収め、「自分が勘定奉行の間は間違いなく金を送る。しかし、幕府の運命についての覚悟だけはしっかり決めておくことが必要であろう」と付け足したのでした。   

小栗の勘は的中しました。一橋慶喜は、新政府側の要路と繋がりを持つ勝海舟や大久保利通に全権を委ねて明治政府に恭順したのです。そして1868年1月、これまで偉業を重ねてきた小栗は罷免となります。

忠順は主戦派と言われていますが、闇雲に幕府の存続を唱えたわけではありません。忠順は旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷で生まれました。小栗家の屋敷内にあった朱子学者・安積艮斎(あさかごんさい)の私塾「見山楼」に入門したのは8歳のときでした。安積は外国事情にも詳しく海防論の論客としても知られた人物で、塾の門人には吉田松陰、岩崎弥太郎、高杉晋作が名を連ねていました。

儒教の経典『礼記』に、主君を「三たび諫いさめて身をひく」とあるように慶喜に対し言うべきことを言い、容れられなかったのです。朱子学は古代先王の道を理想の政治とするものですが、あくまで朝廷も幕府もすべて相対的なもの、不合理ならばとり替わるべき。神話伝説ではありますが古代中国で理想の政治を行った堯・舜も子息に跡を継がせず、有徳の人物を見出して後継者としたのはそのためです。

ところが慶喜は朱子学から派生した、水戸学を身につけていました。水戸学では、朱子学で言う先王の道を日本の皇室に置き換え、尊王攘夷思想や皇国史観を絶対のものとしたのです。その朱子学と水戸学の違いが、忠順と慶喜の違いだったのです。それぞれの思惑には、深い思索がありました。水戸藩主から征夷大将軍となった慶喜は徳川家康の教えを守ったのです。徳川本家と朝廷が対立した時には水戸家は朝廷側に着くように徳川家祖・家康からの密命が与えられていました。それは徳川の血筋を絶やさない為の安全弁でした。水戸家からは副将軍までとして将軍を出さないようにした所以です。

かつて小栗家の奉公人だった三井財閥の中興の祖・三野村利左衛門は千両箱を贈り、米国亡命を勧めましたが、小栗はこれを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあればその時は宜しく頼む」と伝えました。2月には、徳川慶喜側近の旧幕臣を中心として結成した有志隊・彰義隊の隊長に渋沢成一郎から推されましたが、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶しました。

そして3月、知行地(幕府から与えられていた土地)だった上州権田村(群馬県高崎市倉渕町)に引き上げ、一家揃って東善寺に移り住みました。水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っていましたが、4月、幕末時に主戦派の代表格で戊辰戦争では抗戦を主張した小栗を危惧し続けた官軍は、抵抗する構えを見せたといういわれなき理由で取調べもないまま薩摩の一士官による現場での判断で、烏川の川原で斬首されることになります。小栗の存在は新政府にとって抹殺しておきたかった脅威と理解する以外にない行為でした。

死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、小栗の家臣が無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放ち、「こうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭しました。そして「何か言い残すことはないか」と聞かれると小栗はにっこりと微笑んで、「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と頼んだと伝えられています。

身重の妻の道子は善光寺参りに身をやつし、急峻な山越えの逃避行となりました。養女の鉞子(よきこ)の許婚として迎えていた養子の忠道(幕末の旗本・駒井朝温の次男)は忠順の斬首の翌日、上野国高崎で斬首されました。忠順の母・くに子と家臣と従者の一行は新潟を経て会津に到着しました。松平容保(かたもり)の計らいにより、夫人は会津藩の野戦病院に収容されて女児を出産、国子と命名されたのでした。

帰る場所がない小栗家の世話をしたのは、小栗に恩義を感じていた三野村利左衛門でした。三野村は、日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い終生、面倒を見続けました。小栗の妻・道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られました。そして大隈の勧めで迎えた婿・貞雄(佐伯藩士で明治時代の官吏・矢野光儀の子。矢野龍渓の弟)が製薬実業家となり、その後、政治家として日本の福祉を推進、医療の社会化に貢献して小栗家を再興しました。

小栗国子 貞雄
小栗国子 貞雄

享年41歳。小栗忠順の波乱に満ちた生涯でした。

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