メタモルフォーゼって何かしら

フランソワ・ジェラール「プシュケとアモール」

目次

 女性は身ごもり、母へメタモルフォーゼする

なぜ、特に女性はメタモルフォーゼに心が惹かれるのでしょうか。メタモルフォーゼとは変身、変貌、変態の意味です。

子供が生まれる前のことなのですが、NHKのETV8で、「オイリュトミー」の舞踊を観る機会に恵まれました。わたしは6歳から17歳までバレエを習っていたことが機縁となってモデルになりその後、女優へと転身することになったので、芸術の根は舞踊なのです。育った地域にバレエの教室があったからで、そう考えますと、環境というものが人に限らず、すべての生命にとってどれほど大事か、というよりほぼそれによって決まると言っても過言ではないように思います。

そんなわたしがオイリュトミーという一種の舞踊様式を一目見たとき、一瞬で魅せられてしまったのです。内容を説明するほど知識を持ち合わせていませんが、無垢を感じたのです。

こうして神秘思想家で教育者、人智学の創始者のルドルフ・シュタイナーを知りました。

そのときわたしは20代半ばで、そろそろ母親になるための準備が、身ごもるための準備が心身に芽生えはじめた時期でもあったのです。

オイリュトミーがシュタイナーを知る入口となって、わたしはメタモルフォーゼという概念というか思想を知りました。そして人も含めた動物と植物はライフサイクルにおいて、誰もが同じ連環を、変化・変身しながら歩んでいくということに気づきました。

一粒の小さな種。目には見えないのですが、そのなかには誕生から死に至るまでの生命の全過程、命の周期といった仕組みが内包されています。

その頃のわたしはまだ若くて、自分だけが苦しいものと勘違いし、自分を他者とは別の存在に感じていた時期だったので、何か一つの答えを見つけることができたような、枯渇した心に泉を見つけたような安らぎを覚えました。

抽象度を上げて俯瞰してみるならば、他者と大差があるように思えてもさほどのことではなく、人生の過程でおよそ同じ年齢の時期に、同じ事象に直面することに気がついたのです。人でも植物でも命に共通の過程で、通過儀礼のようなものと言ったらよいでしょうか。

ルドルフ・シャタイナー
ルドルフ・シャタイナー(1861~1925)

わたしはスピリチュアリティが強い方なのかもしれません。自分のことは自分ではなかなか見えにくいのでよくはわかりません。わたしの育った家では、「真理」という言葉が祖母と母の会話の中にいつも普通に交わされていて、それを常に聞きながら成長しました。

そんなわたしが神とは何かと自分に問うたなら、宇宙の秩序を司る存在と、今のところは考えています。神と自然は同一と思っているのです。神性が宿っている自然のことを、古代ギリシアではピュシス(フュシス)と言いましたが、これに相当するように思います。

母になる準備が整ってきた頃、わたしはシュタイナーの『霊学の観点からの子供の教育』を読みました。「霊学って何?なんだか霊という文字が怖い」と内心では思いながら。でもジャン・コクトーも、霊とかインスピレーションという言葉を口にしていたので、「コクトーが言うなら大丈夫」、と太鼓判を押された思いがした記憶があります。

本の最後に、「教育のためのお祈り」があるのですが、そのなかの幾つかをご紹介いたします。

「食前の祈り」

暗い土の種が芽を出します。

風の力にふれて 葉をひろげます。

そして日の光をうけて ゆたかな実を結びます。

そのように心の種は からだの中で芽を出し

そのように魂の力は 世の中に向けてひろがり

そのように私たちは 精神の光の中で

ゆたかな実を結ぶのです。

「朝の祈り その3」

植物は 日の光の力で 生きています。

人間のからだは 魂の光の力で 働いています。

植物には 天の日の光が大切であるように

人間のからだには 魂の光が必要なのです。

「夕べの祈り」

美しいものに 感動します。

真実のものを 大切にします。

高貴なものを 尊敬します。

善きものの側に立ちます。

そして人生の目標を目指して 歩き続けます。

行いを正しくします。

感情に安らぎを与えます。

思考に光を与えます。

そして

すべてのものの中の

大宇宙の そして私の魂の奥底の

神の働きを信じます。

こうして綴ってみると、シュタイナーの思想は汎神論ですね。

 ゲーテのメタモルフォーゼ

シュタイナーを読み進めていくなかで、シュタイナーはゲーテに大きな影響を受けていたことを知りました。

ゲーテ
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749〜1832)詩人・小説家・政治家・科学者

「メタモルフォーゼ」は、ゲーテが創始した形態学(Morphologie)の中心概念だったのです。

形態学は、有機的自然の形成(Bildung)と変形を説く学問です。有機的生命を把握し、類比的に人間形成と自己実現のプロセスを理解するものです。

ゲーテはヴァイマール大公国の宰相を務めるかたわら自然科学者として色彩論、形態学、生物学、地質学、骨相学、気象学などの研究を遺しています。

ゲーテの後半生に深い交流をもったエッカーマンの『ゲーテとの対話』にあった記述だと記憶しているのですが、ある日のこと、ゲーテが宮廷内にいたときに雷鳴が轟いて遠くで落雷がありました。ゲーテは遠方で崩壊が起きたはずだと言ったので、周りにいた宮廷人たちはゲーテは驕り高ぶっていると揶揄しました。けれどもそれから半月ばかりして、実際におきていたことを知らせる伝書が届いたのです。

このことはとても重要なことを物語っています。ゲーテは予言者のように言い当てたのではないのです。知識を蓄えていたので、それがわかったのは当然の成り行きだったのです。神秘とはこうしたことだと思います。神秘がまとう謎めくベールを拭ってしまえば、真の姿が現れ、それはもはやリアルとなり通例に変わるのです。

「花は葉のメタモルフォーゼ。根も茎もすべて葉である。」と記したのが、『植物変態論(Metamorphose der Pflanzen)』でした。「生命の全過程が一粒の種のなかに内蔵され、子葉から果実へと、ひとつの形態からほかの形態へ変形・変態して自然の頂点へと登っていく」、とゲーテは主張しました。

これはひとつには、当時リンネによって分類学が大成されていたのですが、それを批判するものでした。

リンネ『Systema Naturae第10版』(1758)の837ページと花の性的システム図(1736)
右:リンネ『Systema Naturae第10版』(1758) 837頁 左:花の性的システム図(1736)

なぜかといえば、分類学では、植物観察に適用しようとするとき根・茎・葉・花などの器官の可変性に難点があると分かったからです。

新しい草花を見つけ分類し配列することは、並べ、当てはめて全体の外観を作り出す一種のモザイクで、ゲーテにはあたかも押し花のように思われたのです。けれども重要なことは、自然は生きているということで、生きた植物を生きたまま捉えなければいけないと、ゲーテは考えました。

生きて絶え間なく動いているものは形態(ゲシュタルト)と呼ばれ、生み出されたものや生み出されつつあるものに対して、形成(ビルドウング)という言葉を用います。

それは理念とか概念をあるいは経験において、一瞬の間だけ固定されたものを指しています。

しかしひとたび形成されたものも、たちどころに変化・変形するのです。自然の示す実例のままに形成される動的な、のびやかな状態として捉えなければならないと、ゲーテは『形態学序説』で述べました。

「すべての生物は一なる存在ではなく、多からなる存在です。生物が不完全であればあるほど、その各部分は互いに同一に、または類似したものになり、また部分は全体に等しくなる。一方、生物が完全になればなるほど、各部分は類似しなくなる」とも記しています。

このようにゲーテは、動植物の動きと生命を捉えた研究、すなわちメタモルフォーゼを核におく研究を形態学と名付けたのです。

metamorphose(メタモルフォーゼ)とは、「meta=変化」、「morph=形・形態」なので、「変身・変態」を意味します。

ゲーテは比較解剖学や骨学研究から人を含めた動物の根源的な共通性に着目し、その基となる「原型」を考えていました。それは動物の場合、脊椎骨であるとみていました。

それに対して植物ではそれは葉で、葉が植物の原型すなわち原植物であると結論付けたのです。

ゲーテ原画「貫生のバラ」
ゲーテ原画「貫生(かんせい)のバラ」(貫生=一度止まった植物の生長点が再活性化する現象)

イタリア旅行を含め、さまざまな土地での観察から、あらゆる動物または植物は、元来、同一で、環境、生育状態の相違に応じて形態が変態していったと考えました。これは進化論の先駆けにあたります。

植物の場合は、葉が地下に伸びて根となり、双葉から螺旋状に展開しながら葉を増やし、萼となり、花弁となり、雄蕊・雌蕊となり、実となり、種(種の中の胚も含む)となるのです。すなわち原植物は葉で、葉のメタモルフォーゼであると考えたのです。

ゲーテの植物標本の麻
ゲーテの植物標本の「麻」

今日、進化論は否定されましたが、そういえば、現在の植物につながるものとして、海藻があげられます。そのなかでも、まだ根、茎、葉に分化していない全体が葉のような形をしたタウイアという海藻(藻類)が、ほぼ最初の植物として、10億年近く前のカンブリア紀以前から存在していたことが分かっていますが、このことからも植物は葉のメタモルフォーゼという主張は正しいと見て取ることができると思います。

それでは実際に形態の変化を起こすのは、何による作用であり、力によっているのでしょうか。

 バイタリズム(生気論)

ゲーテはカントの『判断力批判』で、ブルーメンバッハを知りました。ブルーメンバッハは比較解剖学者で、近代的な動物学や人類学の創始者の一人です。彼は動物の発生に関して、卵などの内部に、生まれてくる子の構造が既に存在しているという古くから優勢な「前成説」に反対し、鶏の卵の孵化の経過や流産した人間の胎児の観察から、生物の形態は徐々に形成されることを指摘して、「後成説」を唱えました。

ブルーメンバッハ
ドイツの比較解剖学者 ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ(1752〜1840)

そしてバイタリズム(生気論)の立場に立って『形成衝動』を提唱します。「形成衝動」は、「形成本能」とも訳されます。

バイタリズム(vitalism 生気論)は、「生命に、非生物にはない特別な力を認める」という仮説で、活力論とも呼ばれています。

生気論では、生命現象には、物理学や化学の法則だけでは説明できない独特の原理があると考えます。

現代の生物学ではマテリアリズム(唯物論)的、メカニズム(機械論)的立場を採用しているので認めませんが、古代ギリシアでは「息」を語源とし、転じて魂や心や精神を意味する「プネウマ」や「プシュケ」が体を動かす源の力だと考えられていました。ラテン語ではスピリトゥス、それが英語のスピリットになりました。

アリストテレスも植物・動物・人間にプシュケの区別は基本的にない、と最終的にはみなしています。

アリストテレス
アリストテレス(BC384〜BC322)BC330年のリュシッポス作ブロンズのオリジナルのコピー。アラバスターのマントが追加されている。

まだ花でないものとしての種子(可能的なもの)は、発展することで花(現実的なもの)になると考えました。

このようなとき、前者を能力・可能態・潜勢態であるデュナミス、後者をエネルゲイアと呼びました。

生物論者としてのアリストテレスは、「プシュケは肉体に宿るものだが、肉体を離れて独立したものではない何ものかである」といいました。

ブルーメンバッハは、生物界にある生殖と再生の二つの現象、言いかえれば自己と同じものをつくる、または自己保存を適える現象を、形成衝動すなわち形成をひき起こす衝動ないし激しい活動と呼んだのです。

機械的な力という表現ではなく擬人化して表現することで、理解しやすいものにしたのです。

「この途方もないものが人格化されると、われわれには神、創造者、維持者として現れてくるのであり、この神を崇拝し敬愛し讃美するようあらゆる仕方で促されているのである」とゲーテは述べました。

これは汎神論にほかなりませんが、ゲーテは汎神論的一元論を主張したスピノザから大きな影響を受けとっていました。汎神論とは、すべてのものの中に神性が宿っているという主張です。ですから宇宙という自然自体が神で、この思想を「神即自然」といいます。

ゲーテにとって変化し続ける「生命」という目に見えない自然は、目に見える自然を得てはじめてその実在を示し得たのです。そして目に見える自然は、目に見えない自然である精神を得てはじめて、その実在に意義をもち得たのです。それは崇高な神的な愛の活力そのものでした。

スピノザ(1632〜1677)
哲学者バールーフ・デ・スピノザ(1632〜1677)著『エチカ(倫理学)』

 植物のメタモルフォーゼ(詩)

それではゲーテの詩「植物のメタモルフォーゼ」を記しておきたいと思います。その方が感覚的に容易に捉えることができると思います。

私訳

「植物のメタモルフォーゼ」

この庭に咲き乱れる花々の群れは 愛しい人よ、あなたの心を乱し

聴きなれぬ花の名は 聞き慣れぬ響きで あなたの耳を惑わす 

似かよいながら ひとつとして同じものはない

それら溢るる花は 秘密の法則 聖なる謎を暗示し

愛らしい友よ 謎を解く言葉の鍵を 献げることができたら どんなに喜ばしいことでしょう

植物が次々に育つのをごらんなさい 花や果実へ形づくられてゆくのを

ひめやかにはぐくむ大地の母が 種子に命を吹き込むと こうべをもたげ

萌える子葉の可憐なからだは 光の刺激にゆだねられ

種子のなかに眠っている素朴な力が 外皮を纏い 身を固く閉じ

葉も根も芽も まだ形は整わず 色もない 固く乾いた殻に包まれ

穏やかな生を保っていた種は 水を含むと勢いよくのびはじめ 闇から身を起こす

生まれたての形は単純で 植物も赤子のよう やがて 形づくる衝動にうながされ

節から節へとのび いつまでも初めの姿を保ちながら 身を変えてのびてゆく

葉は次々と様々な姿に生み出され ひろげれば 刻み目をつけ 先端を尖らせる

こうして葉は完成を遂げた 多くの種にそれを見て あなたは目をみはる

厚く膨らんだ葉面に刻まれた葉脈 形をうながす衝動は

自由気ままで 無限のようにみえる

けれど自然は 力強く形成を止め 穏やかに より完全なものへ導いてゆく

汁液を少なくし 管をせばめれば 形は繊細な作用をあらわす

葉の緑のひろがる衝動は遠のき 葉脈は完成してゆく

しなやかな茎が 葉をつけずに急速にのび 奇跡を眺める人の目を惹きつける

似たような小さな葉がまわりに並び 円い土台をつくり上げれば

軸の周りにぎっしりと 支える萼(うてな)があらわれる

鮮やかな花冠の至高の姿 自然は 完成した長身を誇るのだ

ほっそりとした足場の上 茎の先に咲く花が揺れると

あなたは またもや目をみはる

けれどこの華やぎは 新たな創造を告げ

色鮮やかな花は神の御手に導かれ たちどころに収縮して

いとも繊細な形のものが ふたつ勢いよくのび ひとつになる定めにある

雌雄となり婚礼のように 身もごりの時を待ちうける

睦まじい連れ合いとなるため 清められた祭壇の周りに並んでいる

婚姻の神があらわれ かぐわしい得も言われぬ香を漂わせ

あたり一面に生気を注ぐと たちまち無数の萌芽は膨らみ

身ごもる果実の母胎へ 淑やかに包まれる

自然はここに永遠の力の環を閉じる

しかし新しい環が先の環につながり 鎖は果てしなく時を貫く

こうして個も全体も生に与る

愛しい人よ、色とりどりの群れに まなざしをお向けなさい

もはやあなたの心は乱されはしない

どの植物も永遠の法則を告げている どの花も一層大きな声で

あなたと ことばを交わし合う

女神の聖なる文字をとけば 筆跡は異なろうと 至るところに読み取れるだろう

蛹は這い 蝶はせわしく舞っても 人間は変貌しようとも

出会えた日から 友情が満ち溢れ 内部から愛情がおもむろに芽生え

愛の神(アモル)が花と果実を授けた

見てごらん ぼくらの胸のなかにも 自然は多様な形を広げている

今日という日を歓びたまえ 聖なる愛が 至高の実を恵む

ひとしい想い 調和した直観のなか 夫婦となり より高い世界を開かん

 オウィディウス『メタモルフォセス』=ギリシア・ローマ神話『変身物語』

わたしはゲーテのなかに自然という崇高と神秘を見いだしました。そしてそのゲーテのメタモルフォーゼにも、源があるのを知りました。それはギリシア・ローマ神話の宝庫、オウィディウス『変身物語(メタモルフォセス)』で、ゲーテの愛読書だったのです。そこでは、神々も人間も動植物も自在に変身を遂げるのでした。

ローレンシャン医学図書館『メタモルフォセス』(1390-1400)
ローレンシャン医学図書館『メタモルフォセス』(1390〜1400)

『変身物語』は15巻12000行あまりの大作で、韻律としてヘクサメトロス(1行が6つの韻脚からなるもの)を用いて、神話伝説上の数々の変身譚を物語ります。一般に古代ギリシア・ローマ神話の集大成とみなされています。

トスカナの『メタモルフォセス』1390年頃
トスカナの『メタモルフォセス』1390年頃

騎士の家に生まれたプーブリウス・オウィディウス・ナーソー(前43〜後17)は、ローマへ出て法律と弁論術を学び、社交と詩作の生活に入りました。『恋の歌』や『恋の技』で社交界の寵児になりましたが、紀元後8年、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス帝の命により、黒海沿岸のトミスに流されて、その地で没しました。オウィディウス自身は追放の原因を、「一つの詩歌と一つの過誤に帰す」とだけ書きました。これは、アウグストゥスの娘ユリアの醜聞に連座したために下されたのです。

想像を絶する博学で、のびのびと自然に、枯れることのない泉のように湧き出で、速度のある絶妙な語りで綴られた『メタモルフォセス』を、オウィディウスは追放にあったときに、焼いてしまったのです。けれども手写本を友人たちがもっていたので、湮滅(いんめつ)を免れ、中世を通じてひろく愛読されることになりました。ギリシア神話として話されている大部分はこの本を通じてであり、文学、美術の無限の主題と挿話の宝庫となり今日に至っています。

ほかにもオウィディウスの『祭暦』は、一種の愛国書です。神話の伝承、天文観測、農業カレンダーを含み、ヘシオドスの『仕事と日』などが影響を与えています。信じ難いほどの博識が生み出した『祭暦』によって、宗教的な祭りや儀式などの伝承を保存することができたのです。一年の各々の日に関係ある歴史伝説祭礼を物語り、ウェルギリウスの『アエネーイス』とは別の立場からローマを歌い上げました。

ターナー「追放されるオウィディウス」
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー「追放されるオウィディウス」

わたしはオウィディウス『メタモルフォセス』で、古代の地に足を踏み入れました。そして古代の哲学へ導かれました。最初に手にしたのは哲学書アリストテレスの『形而上学』(メタフィジックス)でした。「形而上学」という言葉は、コンセプチュアルアートのデュシャンが頻繁に述べた語彙で、その意味を知りたかったからでした。そう言えばデュシャンはインタビューのなかで、いつも「変貌」と言っていました。形而上学については、別の機会にお話しさせていただければと思っています。

メタモルフォーゼという言葉は用いてはいないのですが、昆虫の変態、動物の成長、植物の生長、形態の変化などの起源を見つけようと思うなら、やはりそれはアリストテレスへ辿り着くことでしょう。

わたしは源泉に遡る旅を続けていました。なぜなら、原初は最も尊いものと、アリストテレスが言っていたからです。

今日のお話はここまでにいたします。

トップ画像:フランソワ・ジェラール「プシュケとアモル」ルーヴル美術館蔵

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