
ルーヴル美術館公式ウェブサイト内『モナ・リザ(La Joconde)』
イタリア・ルネサンスの代表的美術家レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)の多才な成果は、どれも高尚で神秘的な色彩が放たれているために近寄り難い印象を与えます。
けれども覆っているベールを拭ってしまえば人間らしいさまざまな感情をもった実際の姿を如実にあらわし、もはや謎の人ではない素顔を知ることができます。
カテゴリー・アートの【絵画】第一回は、「魂が込められなければ、芸術は生まれない」という名言を残した最高峰に位置する天才芸術家の生涯と作品をたどって見ようと思います。高尚で博識なためになじみ難い印象がありますが、『モナ・リザ』以外のレオナルド作品にも目を向けないのはもったいないです。
わたしは今回、調べていて初めて分かりました。伝統的芸術を破壊したマルセル・デュシャンは、とにもかくにもレオナルドへのオマージュを彼なりに表現したものだったのですね。ダダイストのデュシャンにとっておちょくりはお手のもの。絵画史上、最高峰に位置する名画にひげを生やし、『L.H.O.O.Q.』(彼女の尻は熱い)とタイトルをつけて冷やかしました。

フィラデルフィア美術館公式ウェブサイト 『L.H.O.O.Q』 『大ガラス』
20世紀最大の難解な傑作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』に配されている機械の図にしても、わたしは40年近くこれは一体何を意味しているのだろうと思ってきましたが、レオナルドをひもといていれば、もっと早くに理解できたはず。今後、ピカソは忘れ去られたとしても、デュシャンは時代とともにますます普遍化していくことでしょう。
さて、本日の主人公、レオナルドに話を戻します。
レオナルドが67年の生涯で取り組んだ研究は、美術の諸分野の理論と実際はもとより図学、数学、物理学、力学、天文学、光学、地理学、解剖学、動植物学、地質学、水理学などあらゆる自然科学研究、飛行機を含む種々の機械の考察、土木、造兵、築城、航海などの軍事その他の技術開発、運河、水理・都市計画、橋の設計、寓話、笑話などに及びました。
レオナルドはトスカナ地方のヴィンチ村で、公証人セル・ピエロ・ダ・ヴィンチと農家の娘カテリーナとの庶子として生まれました。
「万能の人」の最高の典型として多岐にわたり不滅の業績を残した67歳の生涯は、日本では室町時代にあたります。美術家では狩野派の始祖・狩野正信(1434~1530)や雪舟(1420~1506)らが活躍した時期です。
その生涯における広範な活動は、彼の行動と芸術の発展に基づき、5期に分けて把握されています。
目次
- 第一 フィレンツェ(修行)時代(1466~82)14~30歳
- 『受胎告知』『東方三博士の礼拝』『聖ヒエロニムス』
- 第一 ミラノ時代(1482~99)30~47歳
- 『白貂を抱く婦人像』『岩窟の聖母』『最後の晩餐』
- 第二 フィレンツェ時代(1500~06)48~54歳
- 『アンギアーリの戦い』『モナ・リザ』
- 第二ミラノ時代(1506~13)54~61歳
- 『聖アンナと聖母子』『素描』
- ローマ・アンボワーズ時代(1513~19)61~67歳
- 『洗礼者ヨハネ』
第一 フィレンツェ(修行)時代
レオナルドの誕生は1452年4月15日土曜日夜の3時で、翌日には司祭による洗礼を受けたことが分かっています。この一件を記した覚書が20世紀にフィレンツェの国立古文書館で発見されました。これは巨匠の祖父が書いたものです。代々公証人を務めてきたダ・ヴィンチ家でしたが、レオナルドはこの名家の庶子として生まれました。当時の風習では、庶子の出生は不都合でも珍しいことでもなく、社会的にも差別されることではありませんでした。
父親は、レオナルドの生まれた年に彼を引き取って、フィレンツェの富裕な令嬢と結婚し、母親も同じ頃にヴィンチ村の職人のもとへ嫁ぎました。
父親は77歳の生涯でしたが、最初と二度目の結婚では子がないまま妻と死別しました。そして49歳以降の三度目、四度目の妻との間にレオナルドのほかに9人の男子と2人の女子を得たのです。レオナルドに嫡出の異母弟ができたのは彼が24歳のときでした。それまでは父のかけがえのない一人息子として家族中から厚遇されて成長しました。
こうした話は、ミケランジェロの弟子ジョルジョ・ヴァザーリが書いた『画家・彫刻家・建築家列伝』で、美術史の基本資料になっています。ここにつづられたレオナルド像が今もそのまま定着しています。そこには少年時代も記されていて、素描や彫塑の才能が抜群だったので、父親は友人のベロッキオのもとへ入門させたとあります。
レオナルドは14歳で徒弟修行が始まり、20歳でフィレンツェのサン・ルカ画家組合に登録されました。
「独り立ちの画家」に認められた後も彼は助手として師の工房に留まりました。工房がトスカナ地方で一、二を競う権威のある美術家養成の場で、ベロッキオ自身、絵、彫刻、金工、鋳造に重きをなし、建築工学、さらには数学、音楽の才にまで恵まれた理想的な師で学べきものが多く残っていたからです。誰よりも徹底的に基礎修行を積んだことがその後のレオナルドに大きな意義を与えたのです。
『受胎告知』
デビュー作となる『受胎告知』は、『ルカによる福音書』に記された内容です。大天使ガブリエルがマリアに処女懐胎の奇跡によってイエスという「神の子」の受胎を伝えるために、神から使わされた情景を伝統的な構図で描いています。

製作年 1472年 – 1475年頃
種類 板に油彩とテンペラ
寸法 98 cm × 217 cm (39 in × 85 in)
レオナルドの『受胎告知』はヴェロッキオとの共同作業によって描かれたといわれています。
作品は1867年、ウフィツィ美術館がフィレンツェ近郊の聖バルトロメオリーヴ山修道院から引き取りましたが、修道院側はドメニコ・ギルランダイオの作品と認識していたということです。ギルランダイオは、ミケランジェロが最初に師事した画家でベロッキオ工房の仲間でした。
作品は後世の画家によって翼が長く描き直されていますが天使の衣服、庭園の草花、豪華な書見台、背景の曲がりくねった小径など、いたるところに精緻なリアリズムが凝らされています。
『東方三博士の礼拝』

制作年 1481年
種類 板に油彩
寸法 246 cm × 243 cm (97 in × 96 in)
レオナルドは、1478年か翌年にベロッキオ工房から独立しました。
1481年、29歳のとき『東方三博士の礼拝』の依頼を受けましたが、ミラノ公国へと向かったために制作は中断されて未完成に終わりました。
それでもこの未完の作品は、これまで体得したすべての芸術感覚がみごとに開花され、その後に発展する彼の芸術のあらゆる萌芽を含んでいるという点で、レオナルド芸術の序章とするにたるものでした。
不思議な星を見て救世主の降臨を信じた東方の三博士が確認のために、はるばるベツレヘムまで訪れて聖児に礼拝するという『マタイ伝』第二章の物語は、カトリック教会の主要な画題として古くから数多く描かれてきましたが、どれも物語の豪華を尽くした説明的図解でした。
レオナルドは画期的な様式を創造して、まったく先例のない新しい聖母像を表現しました。
それは主題内容を徹底的に追求することでテーマの本質がはっきりと把握され、明暗法が従来の客観的な写実表現の手段から進んで、精神性の表出手段として生かされているのです。

『聖ヒエロニムス』

制作年 1482-83年
種類 板に油彩
寸法 103cm × 75 cm (40.5 in × 29.5 in)
所蔵 バチカン宮殿
やはり未完成ではありますが、主観と客観のまったき融合という点では『東方三博士の礼拝』の直後の『聖ヒエロニムス』は、これをはるかに上回っています。
この絵は1829年頃、フェッシュ枢機卿によって偶然にローマで発見され、記録上の確証がまったくないにもかかわらず、彼の確実な真作として今日すべての美術史家から容認されています。
それはこの作品における厳正な写実技法とすぐれて深い精神内容との融合が、未完ながらもレオナルド以外のいかなる芸術家もなしとげえない完璧さと強固さを見せているからです。
正確な解剖学的な知識、練達な明暗法や短縮法などの完成された写実技法が、隠遁してきびしい苦行を重ねるこの聖者の魂の意向をみごとに描き切っています。
第一ミラノ時代 (1482~99)30~47歳
1482年・秋頃(あるいは翌年早々)、レオナルドはミラノに移住しました。
当時ミラノは暴君が暗殺され、嗣子の幼弱に乗じて叔父のルドヴィーコ・スフォルツァが支配していました。文化熱はすこぶる盛んで、レオナルドはこのミラノ公に自薦状を携え、フィレンツェよりも一層の制作意欲と多方面の才能を満足させる活動の舞台を求めて移住したのです。
『白貂を抱く婦人像』
そしてまもなくミラノ公の愛人を描いたと思われます。その肖像画が、『白貂を抱く婦人像』なのかは、なお検討の余地があります。

制作年 1490年
種類 油彩
寸法 54.8 cm × 40.3 cm (21.6 in × 15.9 in)
所蔵 チャルトリスキ美術館、クラクフ
『岩窟の聖母』

製作年 1483年 – 1486年
種類 板に油彩、19世紀にキャンバスへと移植
寸法 199 cm × 122 cm (78 in × 48 in)
ミラノでの最初の大作はデ・プレディス兄弟との共作『岩窟の聖母』でした。
光と影が織り上げる微妙なスフマートの効果は、深い宗教感情を伝えるになんのよどみもありません。
この神秘と敬虔(けいけん)でおおわれる静寂そのものの表現は、当時レオナルドのみが築きえた芸術の世界でした。
スフマートとは、物体の輪郭を柔らかくぼかして描く技法でレオナルドの創始。
『最後の晩餐』

製作年 1495年 – 1498年
種類 壁画、テンペラ
寸法 460 cm × 880 cm (181 in × 346 in)
所蔵 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院、ミラノ
完璧な写実主義と深い宗教感情との結合によって15世紀絵画から完全に脱却したレオナルドは、1498年に完成を見た『最後の晩餐』においてさらなる高揚を得ます。
ミラノ公からサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院のドメニコ会修道士の食堂の壁画を依頼されて仕上げました。
食堂には『最後の晩餐』を描く習慣が生まれていて、院長を中心にそれをしのびながら食事をするのが通例となっていたのです。
現在では損傷がひどいのですが、それでもなお深大な精神と空前の表出力が鑑賞者の胸を打つ作品です。
過越祭の夕食時に、キリストは弟子たちに「なんじらの一人、われを売らん」と悲痛なことばを放った直後の彼らの心にかげった衝撃の相を、冷静に視覚化しています。
過越祭。カトリック教会の典礼の「聖なる過越の三日間」は、ユダヤ教の過越祭と深い関連があり、ユダヤ教における重要な三大祭りの一つです。エジプトで奴隷状態にあったイスラエル(=ユダヤ)の民が、モーセを通して行われた神の救いのわざによって、エジプトから脱出したことを祝う祭りです。
入念な習作を重ね、ユダを一人だけテーブルの反対側におく伝統的構図を捨てました。
主の左右にユダを含めた12人の弟子たちを3人ずつの群にして2組ずつ配し、中央にゆったりと座るキリストに向かわせました。
室内の奥行きをもつ直線のすべてをキリストの顔面に集中させる一点透視図法を用いて、主題の劇的な盛り上げを的確に加えました。
レオナルド芸術の神髄となる主観(精神内容)と客観(写実主義)との驚くべき完璧な合一です。
人間の現実に生きる姿を借りて、深い宗教的内容の比類のない表現をみせるこの作品を、彼はなおも未完成と言ったのです。
レオナルドはミラノ公の豪奢(ごうしゃ)な宮廷に欠くべからざる演出家で装飾デザイナーで音楽家としても活躍し、建築家としてはミラノ大聖堂の中堂ドームなどの設計を行いました。また『絵画論』を含むさまざまな著作に取り組んだのもこの時代でした。城内で開催された「学問の決闘」では数学で抜群の成績を示しました。また彼の指導下で多く芸術家を育てました。
彫刻家としては確実な作品が現存していません。8メートルに及ぶ巨大ブロンズ像になる予定だった『フランチェスコ・スフォルツァ騎馬像』のブロンズは、フランスのミラノ侵攻に対抗するために大砲の鋳造用にまわされ、実現できませんでした。
第二フィレンツェ時代(1500~06)48~54歳
1499年10月6日、フランス軍はミラノを占領したため、レオナルドは弟子のサライらとともにミラノを去りマントバ、ヴェネチアを経由して再びフィレンツェに足を踏み入れました。
しかしそれは神聖政治を行い、宗教革命の先駆者と称されることもあるサボナローラが前年に焚刑(ふんけい。火あぶり)に処された直後で、フィレンツェは暗い雰囲気に包まれていました。
画壇にも精彩がなく、ボッティチェリもすでに芸術活動を閉じていました。
レオナルドは機械工学、土木測量などへ関心をつのらせ、ついに1502年の夏から8カ月間、中部イタリアにおけるチェーザレ・ボルジアの軍事土木技師として従軍したのです。
そのときの行動と行為から得たものは、戦争の狂気に対する強い憎しみだけでした。
『アンギアーリの戦い』

従軍から戻ったレオナルドは、フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)大会議室(五百人大広間)に『アンギアーリの戦い』の壁画を依頼されました。
その10カ月後、ダビデ像を完成させた直後のミケランジェロにそれと相対する壁面に『カッシナの戦い』の製作が委嘱されます。けれども下描きが終わった頃、新しく選出されたローマ教皇ユリウス2世に死後のための霊廟(れいびょう。みたまや)の制作を命じられてローマへ呼び戻され、作品は未完のままで終わってしまいましたが、画家たちに多大な影響を与えた幻の絵画として今日でも注目され続けています。
レオナルドも中央部を仕上げる途上で断念してしまいます。『最後の晩餐』の苦い経験から、テンペラやフレスコを使わずに、壁画に油絵の具を用いた実験的な手法で試行錯誤したのですがうまくいかず、思いは反映されませんでした。
そうして二人の天才美術家による未完の作品がそのまま残されました。躍動感や鬼気迫る表情は、その後の戦闘画の手本となりました。この時代の三人目の天才画家ラファエロは、この画をスケッチするためにフィレンツェを訪れました。
両作品とも現存するのは模写です。『アンギアーリの戦い』の模写の中で、特に有名なのは、ルーベンスによる作品です。しかし彼の時代には大広間はヴァザーリによって改築され、レオナルドの下絵は残っていませんでした。残っている原画はドローイングのみです。なので、すでに模写された版画を、ルーベンスはさらに模写したことになります。
ところがヴァザーリは改築に臨み、レオナルドの幻の『アンギアーリの戦い』を謎のヒントを与えて残している、といわれています。
これはどういうことかというと、当時の壁をそのまま残して、そこから1~3センチの隙間を空けた手前に現在の壁をこしらえたと言うのです。
そして、現在の大広間を飾るヴァザーリのフレスコ画の12m地点にフィレンツェ兵士が掲げている緑色の軍旗に、”CERCA TROVA”(探せ、さすれば見つかる)という文字を記しました。2007年以降、徐々に研究が始められています。
『モナ・リザ』

製作年 1503年 – 1519年頃
種類 ポプラ板に油彩
寸法 77 cm × 53 cm (30 in × 21 in)
所蔵 ルーヴル美術館 パリ
動の極致を大作にこめていた同時期に、レオナルドはまさしく世にもまれな静謐(せいひつ)を小品『モナリザ』に、盛っていました。
モデルは、一般にフィレンツェの名士の三番目の妻、リザ・デル・ジョコンドとされています。
モナとはマドンナのことですが、ヴァザーリが『『画家・彫刻家・建築家列伝』にジョコンドの妻と記しました。
2005年には、ドイツのハイデルベルク大学図書館の専門家が大学の蔵書の余白部分に、『モナ・リザ』のモデルが伝承のとおり、ジョコンドの妻であるという証拠となるラテン語の書き込みが発見されました。
それはフィレンツェの役人だったアゴスティーノ・ヴェスプッチが1503年に記したもので、レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作している最中であることが書かれていたのです。
それまでは、公妃とも愛人とも推測されていました。それはこの絵の二元性からうまれた憶測です。公妃が気高く愛人が下賤という意味ではなく、この絵の内面に包みもっている対極性を指しているのです。
彼は絶妙の写実技法を駆使しながら、特定の婦人像をこえた女性そのものの本質に迫ったのです。
女性のなかにとけている肉体の官能性と魂の品位とを、ぎりぎりのところで均衡させながら、そのことによってかえって最高に魅力に満ちた女性像の典型を築いたのです。
レオナルドは特定の婦人をモデルにしながら、その個別性やさらに一回的な偶然性を取り払って、あらゆる気質を内面に包みもつ女性それ自体を具象化してみせたのです。それは普遍的な人格像の誕生でした。
レオナルドの女性像は常に、その魂の高貴さが厳として官能性を律しています。
このような至難のわざが彼にして初めて可能になったことは、この絵のおびただしい模写をみれば了解できます。それでもストイックな晩年の画家はどれも未完に終わらせています。この肖像画も四年をかけてなお完成しませんでした。
けれども顔や首、特に手のこれほどまでにナイーブな表現がこれまでにあったでしょうか。
ジョコンダの眉は初めから描かれていませんでした。当時は広い額が美人の典型とされたので婦人の眉毛は抜くのがはやっていたのです。
「モナリザのほほ笑み」といわれるものは、テクニック的には目の動きと口元のスフマートの妙技といわれています。
すばらしく、安定感のある上半身が前面に浮き出され、この上ない静かさで、穏やかな気韻を漂わせています。
また背景に目をやれば、遠景に向かうほど対象物は青味がかると同時に輪郭線が不明瞭になり、対象物は霞んで見えますが、これは大気がもつ性質を利用した空気遠近法です。この効果によって深遠な山岳風景もすばらしく、安定感のある上半身が前面に浮き出され、画布には静穏な時が流れています。
第二ミラノ時代(1506~13)54~61歳
1506年、フランスの支配下に入っていたミラノにレオナルドは招かれ、ルイ12世の宮廷画家兼技術家に就くことになりました。
この時期のレオナルドは種々の科学研究、そのなかでも水流に関する研究、運河工学、解剖学、地質学に力を注いでいます。
『素描』


『聖アンナと聖母子』
そうした最中に、晩年の最高傑作で、レオナルド芸術の一つの結論ともいうべき作品が生まれました。『聖アンナと聖母子』です。

製作年 1508年頃
種類 ポプラ板に油彩
寸法 168 cm × 112 cm (66 in × 44 in)
けわしい雪山を遠景に、清澄な湖や谷川の水の流れを背景として、聖母子と祖母・聖アンナが穏やかに座しています。
聖アンナの膝に聖母が乗るという構図は、幼いイエスにとっての母マリア、そのマリアにとっての聖アンナという、深い愛情で結ばれる母子の連なりをあらわしているかのようです。
娘と孫をやさしく見守る聖アンナの表情には、祖母としてのあたたかな思いやりが込められ、そのやわらかなほほ笑みのなかに魂の平安の喜びがこぼれています。
水がはてしなく広がる幽遠な背景は神韻を漂わせ、イエスは子羊と戯れているにもかかわらず吸い込まれるような深い静けさをたたえています。
16世紀の盛期ルネサンスの古典様式の精髄を、これほどまでに言い尽くした作品がほかにあるでしょうか。
ローマ・アンボワーズ時代(1513~19年)61~67歳
1513年、レオナルドは時の教皇レオ10世の弟・ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチに仕えるためローマに赴き、3年後にこのパトロンが亡くなるまで、バチカン宮ベルベデーレの一室に居住しました。
バチカン宮殿ではミケランジェロが、システィーナ礼拝堂に『天地創造』9場面その他を描き終え、ラファエロは、同宮殿内に『アテナイの学堂』をはじめとして次々と華麗な絵筆をふるっているときでしたが、レオナルドはこの時期、目立った業績は残していません。
彼は左利きでしたが右手を中風で不自由にしていたので、ミラノの貴族で忠実な秘書兼主席助手のフランチェスコ・メルツィが老大家を手伝いました。
二度目のミラノ時代にレオナルドは彼の屋敷に滞在したことから、父子の情が育っていったのです。
レオナルドの左利きの筆記は鏡にうつしたような逆方向の文体でその上、謎めいた略語で綴られているので膨大なメモを解読でをきたのはメルツィだけでした。
1514年のローマでは数学や科学に没頭していましたが、フランソワ1世の招きを受けて1516年か翌年春に、フランスへと移り、1517年には弟子のメルツィらと、フランスのアンボワーズのクロ・リュセ城を与えられ暮らしはじめます。
宮廷画家としての活動のほかには、膨大な手記類の整理やさまざまな思索にふけり運河設計を行ったり、種々の宮廷行事の指揮をし、宮廷の設計をしたりして充実した生活をおくりました。
そして最後まで手元においていた作品は『モナ・リザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者ヨハネ』の3作品でした。
『洗礼者ヨハネ』

製作年 1513 -16年頃
種類 クルミの板に油彩
寸法 69cm×57cm(27.16 in×22.44 in)
所蔵 ルーヴル美術館 パリ
『洗礼者ヨハネ』は彼の最後の作品ですが、このモデルはもう一人の愛弟子サライだといわれています。
サライの父親は、画家が所有していたワイン畑で働いていたことから1490年、10歳のときにレオナルドの住み込みの弟子になり、1518年、レオナルドの死の前年まで勤めました。師のもとを去ってからはミラノに戻って父が働くレオナルドのワイン畑で芸術活動を続けました。
画家が死去するとその遺言でワイン畑の半分を相続しました。そのほかに数枚の絵画作品と『モナ・リザ』も相続したと考えられています。
サライが相続した絵画の多くは、後にフランス王フランソワ1世の所有となりました。師の逝去から4年後、彼は43歳で結婚しましたが翌年、決闘で負った傷がもとで亡くなりました。
『洗礼者ヨハネ』来歴
1542年にフォンテンブローでフランス王フランソワ1世のコレクションの一部だったようです。
1625年、イギリスのチャールズ1世は、2枚の名画と引き換えにフランスのルイ13世から絵画を受け取りました。
1649年にチャールズのコレクションが売却され、その絵はフランス東インド会社の取締役のエバーハルト・ジャバッハの手に渡り、その後にマザラン枢機卿が所有し、1661年にはフランス国王ルイ14世のもとへ移りますが、フランス革命後、ルーヴル美術館のコレクションに入って現在にいたります。
1519年5月2日、クロ・リュセ城でレオナルドは67年の生涯を閉じました。メルツィが世紀を超えた偉大な芸術家の最期をみとりました。レオナルドの遺言で、これまでの奉仕と感謝から遺産はメルツェに贈られました。彼は公式相続人となり、生存中は遺品の品々を聖遺物のように大切に保存していました。
レオナルドの手記は19世紀以降、研究が進められていますが特に科学方面の諸研究は、実証的経験主義と冷徹で観察的な思考法とが結晶し、科学史上での先駆的意義が多大であると分かってきました。
コペルニクスより以前に、地球が遊星であることを予感し、貝殻の化石を通して地殻変動と地殻形成を的確に推測し、ニュートンを待たずに、慣性や作用・反作用をかなり理解していました。
若くして新プラトン主義の観念論が風靡(ふうび)するフィレンツェを見限って、各地を点々としながらも自己の信ずる真理探究を黙々と続けた求道の生涯でした。
『自画像』

製作年 1512年頃
寸法 33.3 cm × 21.6 cm (13.1 in × 8.5 in)
所蔵 トリノ王立図書館
自画像は60歳頃にしては、年齢に違和感を覚えます。その答えは葛飾北斎の言葉の中に見いだせるかもしれません。江戸後期を代表する絵師は「70歳までの絵はとるに足らない」と言いました。
レオナルドはあえて自分を老人に描いたのです。
老境に達しなければ、ものの本質が見えないことを知っていたからです。
ルネサンス期の肖像画では、このような長い髪とひげの表現は珍しかったそうです。ラファエロは『アテナイの学堂』の中央にプラトンを配しましたが、それは老いたレオナルドをモデルにしていると言われています。
自画像は、自ずとレオナルド・ダ・ヴィンチが画家の領域を超えた深い洞察、知性を持つ人間であることを示唆します。
柔らかくぼかして描くスフマート技法を産み出した天才レオナルドがいちずに求めたのは、「魂の宿った絵画」の創出でした。華美な装飾に走らず、鑑賞者を包み込むような人間の根本的なぬくもりとやさしさの表現は、他に類のない、並ぶもののない豊かさに満ちています。
レオナルドは菜食主義者で、鳥を買っては空へ放していたと伝えられています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考文献 ブリタニカ国際大百科事典 ウィキペディア