ひなまつりの由来、知ってた?

箱をでる 顔忘れめや 雛二対 蕪村

わたしの雛人形の二対は居間のガラス戸棚に置いているので、箱から出さずに一年中見ることができます。なぜ一年を通して飾っているのかと言うと、かれこれ十数年前のことです。知り合いの方のお内裏様の写真を見て、どうしても自分も欲しくなったのです。なんだか少女のような気持ちが湧いてきて止められなかったのです。それで大正時代の三越製のお雛様を買いました。また、知人のご年配の方なのですが、リビングのキュリオケースに五人囃子のうちの一人を飾っていました。その一体の人形は、第二次世界大戦の最中に戦火の中で守った思い出の品だと言う話を伺いました。それで上巳の節句だけ飾るという常識にとらわれなくていいのだと思ったのです。わたしは古物には目が無いので、コレクションの一端にいつでも目に触れるところに飾っておこうと思ったのです。

ちなみに2022年3月3日を旧暦に変換すると4月3日になるようです。桃の花の開花は、概ね桜と同じ時期なので、昔は満開の桃の花を飾ったのでしょうね。

芥川龍之介の作品に、横浜の斜陽となった家で雛人形をアメリカ人に売る日取りが決まったことからはじまる或る老女の話『雛』があります。大正12年の著作ですが、物語の設定は11月頃と文中に書かれているので年号は明治5年と察します。この明治5年は12月1日と2日で終わりました。そして次の日は、新暦の明治6年1月1日になりました。明治5年11月9日に太政官布告が下り、明治5年12月3日を以て、明治6年1月1日とする改暦の詔書があったのです。こうして太陰太陽暦(天保壬寅暦)から太陽暦(グレゴリオ暦)へと移行しました。

太陰太陽暦(lunisolar calendar)とは、太陰暦を基とし、太陽の動きも参考にして閏月を入れ、月日を定める暦のことです。陰暦は今でも使っている国や場合がありますが、月の満ち欠けの周期カレンダーです。

皆さんもよくご存知のように、江戸幕府が決めた祝日には五節句がありました。ところが明治6年(1873)、突然に廃止されたのです。そして神武天皇即位日(1月29日)と天長節(天皇誕生日)が新設されました。

五節句は、人日(1月7日)・上巳(3月3日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽(9月9日)

古来、中国では、月の数と日の数とを重ねた重日を大切な節句としていたのが、日本と朝鮮に流入したのです。

節句は中国の陰陽五行説に由来し、日本の暦における伝統的な年中行事で、季節の節目となる日です。

節供(節句 せっく)、古くは節日(せちにち)ともいわれ、日本の文化や風習へと定着しました。

雛人形を飾った雛壇

明治は欧米化の始まった時代ですが、それ以来、日本式と欧米式が融合して今日の日本が形成されてきました。芥川の『雛』は、そうした変転する新時代への突入をいち早く捉えた作品でした。

娘たちと一緒に祭りに参加する香淳皇后、c。1940年
娘たちと一緒に祭りに参加する香淳皇后。1940年

公家や武家の雅な遊びから江戸の町民文化に溶け込んだ雛祭りの起源を遡ってみたいと思います。手繰れば中国で上巳(陰暦3月最初の巳の日)に催された禊の行事が現れ、東晋の時代に3月3日となりました。そして4世紀の半ば、「曲水の宴」に変化して行きました。

東晋の永和9年(353年)3月3日、王羲之は名士41人を蘭亭に招いて盃を水に流し、自分の前に流れてくるまでに詩を詠む曲水の宴を催しました。

そのときに作られた詩集の序文の草稿が『蘭亭序』で28行324字に心がしたためられ、王羲之最高傑作とも伝えられています。

王羲之は隷書をよくし楷・行・草の三体を芸術的な書体に完成させ書聖と称されました。

日本へは奈良時代に伝わり小野道風や藤原佐理、藤原行成に代表される平安時代の和様の書の様式・上代様に影響を与えました。

『蘭亭序』は残念ながら王羲之による真跡は伝存しませんが、拓本や模本が今に伝えられています。

政治家でもあった書家の王羲之は、書字に留まらず文才にも秀でた芸術家でした。

『蘭亭序』はこんな内容を謳っています。

永和9年3月初め、癸丑(みずのと・うし)のことです。

会稽山の傍らにある蘭亭に会して筆会を催し心身を清めました。

大勢の知識人が来てくれました。若者から年長者まで大勢集ってくれました。

神秘的な高く険しいこの地には、生い茂った林に長く伸びた竹が豊かです。

清流が激しく水しぶきをあげる景観があり、左右に照り映えています。

その水を引き、盃を流す曲水を作り、皆はその周りに座しました。

管弦の楽団が音楽を奏でる華やかさはありませんが、一つの盃を受け、一つの詩を詠じて奥底の心情すなわち幽情を述べ尽くせば足るではありませんか。

この日、空は朗らかに晴れ渡り空気は澄み恵みの風が柔らかに吹きました。

仰ぎ見ては宇宙の偉大さに観じ入り、地上を眺めては万物の生命の息吹を察しました。

目の保養をはかり、心を開いて想いを馳せ合うその訳はここにあるのです。

これこそ見聞を深める楽しみの極みでまことに趣深いものです。

短いこの一生においてある人は心中に抱く想いを最も大事として、部屋にこもり友人と語り明かす人もいれば、またある人は心の赴くままに、世俗の束縛を払って自由に放浪して生きる人もいます。

生き方には人それぞれの違いがあり、静かな事と騒がしい事の違いはありますが、それぞれの境遇を喜びそれぞれの想いに合致するならばそれを喜び、自分自身が納得するものであれば満ち足りて老いていくのにも気づかないのです。

けれどもその行きつくところに飽きが生じてくると感情は移ろい、感慨もそれにつれて移ろうのです。

以前にはあれほど喜んでいたことが上から下に向き直るほどの短い間に、昔の名残になっていることもあります。

ましてや人の命は短く、死が定められているのを思うと尚更です。

昔の人も「生死こそ一生の一大事」と言っていますが、痛ましいではありませんか。

昔の人が何に感情をたかぶらせていたかをみるたび、割り符を合わせるように私の想いと一致して、その文章を読むたびに嘆きいたまずにいられず、自分の心を諭すことができないのです。

まことに生と死を同一視するのも、長寿と若死にを同じにみるのも大げさなでたらめというものです。

現在を、後世の人はどのように見るでしょうか。

きっと我々が昔人を思うのと同じでしょう。悲しいことです。

それゆえ今ここに集う人の名を列記し、その作品を記録することにしました。

時代は移り変わっても人の想いをおこす所以は同じで変わるものではありません。

後の世にこの文を見る者もまた、この文に感じる想いは同じはずです。

『蘭亭序』は心に沁み入る詩で、作者が語った通りに今から1700年も前に生まれた王羲之の心が現在まで永き時空を超えて生き続けているあかしです。

話を元に戻しましょう。

曲水の宴が日本に伝わったのは弥生時代(485年)に天皇が催す宮廷の儀式として行われたと日本書紀に記されています。

奈良時代には3月3日に行われるようになりました。

平安時代には公家の間でも行われ、御所の公式行事の一つとなり和歌を詠み合って盃を重ねました。

その一方で、平安時代には民間に形代(かたしろ)といって禊ぎや祓いに用いる紙の人形を身代わりとして水に流す風俗がありましたが、これが流し雛の原型となって始まりました。

儀式から離れても『宇津保物語』に、「ひひな遊び」と女子の人形遊びのことが記してあります。

室町時代には流し雛ではなく、部屋に飾る目的の人形が登場しました。

これは雛人形と呼べる人形で天児(あまがつ)が男雛、這子(ほうこ)が女雛に変化したともいわれていますが、いずれにしても、祓いの役割を担っていたようです。

江戸時代に雛祭りへと変化して今日に近い形となった興りは徳川秀忠の娘で後水尾帝の中宮として入内した東福門院が1629年に開いた雛の宴ということのようです。

雛祭りは、子の穢れのない健やかな心身の保持を願った節句でした。

長くなったので最後に、古人の和歌で締めくくりたいと思います。

「日本の外交官の妻、家から家への手紙」ヒュー・フレイザー夫人、ロンドン・ハッチンソン、1899年
「日本の外交官の妻、家から家への手紙」ヒュー・フレイザー夫人 ロンドン・ハッチンソン 1899年

上巳

君をまづ 祝う心のいそがれて おのがみの日の はらいをもせず   幕朝年中行事歌合い

曲水の宴

漢人も 筏浮かべて 遊ぶてふ 今日そ我が背子 花縵せな 大伴家持   萬葉集

流し雛

そのときの はらへにすてし人形は けふのひ雛を うらやみぬべし  上巳興・小澤蘆庵


トップ画像 雛 18世紀 ジュネーブ美術館蔵

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