第二章 – 黄金の術はエジプトからアラビアへ
錬金術は一般に、卑金属を化学の力で貴金属に変える方法といわれますが、金属自体は、超新星爆発で生まれた物質です。

人間にとって価値を持つ金は原子番号79の元素です。原子の原子核に中性子線を当てると中性子が1個はじき出され、原子番号が一つ下の物質になるので、原子番号80の水銀に中性子線を照射すると、原子核崩壊により金に変わることが可能です。けれども金の生成には膨大なエネルギーが必要なので、現時点では無意味とされています。
第二章は、「化学は、錬金術のチャイルド」と題してお届けします。ですので化学の親は錬金術ということになります。
金の価値とは何でしょう。それは美しく光り輝き、その上、希少で有用性が高いことです。
これまでに採掘された金の総量は約18万トンで、これはオリンピック公式プール( 縦50m 横22m 深さ1,7m )の約3杯〜4杯未満しかありません。地球上にまだ眠っていて採掘可能な金の総量は約7万トンといわれていて、プールに換算すると約1杯半。けれどもこの7万トンは、地下数千メートルの採掘困難な深い鉱脈や活動中のマグマや海水中に溶けている金を含めての量です。
金(ゴールド)は重い金属元素で、輝黄色で光沢のある見惚れるほど美しい貴金属です。熱や電気をよく伝え、展性や延性に富む金は、細工がしやすいという特徴をもっています。魅力あるこの金属を所有することは、古代において文明の程度を示す尺度でした。

人類最古の金製品は、紀元前6千年にメソポタミア文明を築いたシュメール人が作り出したと考えられています。謎に包まれた高度な文明をもっていたシュメール人は、「神アヌンナキは地球に金を掘りに来た」と粘土板に残しました。高度な文明を築いたシュメール人です。未開の原始人ではありません。それがこのようなタブレットを残すには、それなりの理由があったに違いありませんが、いったい何があったのかは解明されていません。
エジプト、ミノア(クレタ島)、アッシリア、エトルリア文明の繊細な金細工は数千年が経った今日でも、ときにはほとんど完全な形で残されています。

上左から第二棺 第一棺 デスマスク 第三棺 下左から第一棺 宝庫 第二棺 第二棺
前回は、錬金術が現代にも続いていて、それがとりもなおさず貨幣のデジタル化やムーンショット計画、アバターとかロボットなどではないかという話しをしました。それから、ゲーテの『ファースト』第一部のハイライトを要約しました。そして『ファースト』は、錬金術をテーマにした物語だと綴りました。
今回は錬金術はどのように展開され発展していったのか、ヘレニズム化したエジプトからオリエントに伝播し、ヨーロッパに入る前までの動きを見ていきたいと思います。
もともと文明はオリエントで発達し、次第にオクシデント(西洋。西欧)へと移っていったのでした。近代は、後発のオクシデントにばかり注目が集まり、オリエント世界は忘れられがちでした。それでもようやく世界が再びオリエントに目を向けはじめた感はあります。それでは錬金術を通して三世紀からの古代エジプトと西アジアの叡智に触れてみたいと思います。
『錬金術』キミア
目次
プロローグ(前回)
第一章 『ファウスト』の隠れた主題(前回)
第二章 黄金の術はエジプトからアラビアへ
第三章 西ヨーロッパへの流入 記憶術・結合術(次回)
1. 錬金術の別名「黒魔術」の原義
黒魔術とは錬金術の別名です。なぜ黒魔術というのかというと、怖い話などではありません。

古代エジプトで、エジプトのナイル川がもたらす豊穣の黒い大地(ケメト)は、万物の聖なる始原と考えられていました。それに対して不毛な砂漠は赤い土と呼ばれていました。錬金術を行う際に、ナイルの恩恵を受けた肥沃な黒い土を使っていたからです。
アラブ人はエジプトのことを黒(ケム ケミ)と呼びました。ミイラ作りや神秘的な宗教儀式などを「アル・ケム」、「アル・ケミア」と言いました。
そして錬金術は、暗黒の死から蘇る最高神オシリスに結びつきます。オシリスは変幻する極めて重要な黒い金属「鉛」と同一視されました。

中世ヨーロッパの錬金術に多大な影響を与えたジャービル・ブン・ハイヤーン(ゲーベル)の『黒い地の書』は、アラビアの原題は『Kitab(本) al-kimya』です。 このkimya (キミア)は、 khem から転じたのですが、ここではエジプトを指しています。英語の錬金術=アルケミー(alchemy)の語源ともなりました。
2. アレクサンドリアに出現


錬金術の起源は古代エジプトのアレクサンドリアです。
アレクサンドリアに錬金術が出現した理由を考えてみましょう。
プラトンの抽象学説をより現実に近づけたアリストテレス。彼の死とともにギリシア哲学の古典時代が終わりました。そして科学の指導権はアテナイから次第にエジプトのギリシア的都市、ヘレニズム(ギリシア的な思想や文化に由来する精神)期のアレクサンドリアへ移っていったのです。アリストテレスは元来、科学者で生物学の分野で最良の仕事を成し遂げました。物質の組成と変化についての説明は、17世紀まで2000年間、科学思想を代表するものでした。
抽象的な傾向のギリシア哲学は、オリエントの地で幾百年にわたって高度に発展した実践的な技術と出会いました。その地は、アリストテレスの教え子アレクサンドロスが建設したアレクサンドリアで、ここではオリエント的な神秘宗教も栄えました。錬金術は、「ギリシア哲学」「オリエントの技術」「オリエントの宗教的神秘主義」が基になって誕生したのです。
はじめに触れましたが、欧米ではオリエントとは日が昇る東洋を意味し、日が沈む西洋はオクシデントと表現しました。オリエントは、世界最古の文明が発祥したメソポタミア、西アジア、エジプトのことです。
古代エジプトは、クレオパトラ7世のエジプト軍とアントニウスのローマ軍の連合が敗れ、紀元前30年に二人が自殺して以降、395年の東ローマ(ビザンティン)帝国の支配までローマ帝国の支配下にありました。ですからアレクサンドリアは、キリスト教が知的に展開している社会だったのです。

ギリシア語で書かれた紀元300年頃のパピルスが、エジプトのテーベの古代墳墓で20世紀に発掘されました。ライデン・パピルス、ストックホルム・パピルスと呼ばれていて、筆記者は同一の人物と考えられています。

ライデン・パピルスは冶金(やきん)学を扱っています。ストックホルム・パピルスは、真珠の漂白法、宝石や織物の染色、金と銀、鉱物の精錬のための154のレシピが記載されています。これらはこの種の最も初期の完全な論文の1つ。
初期の錬金術師は、はじめは職人にすぎなかったのですが、哲学的な理論に基づいて技術過程の性質を説明をしようとする哲学者たちに、彼らは刺激されていきました。貧乏な顧客のために作っていた模造品が、ほんとうの金に変わるかもしれない、粗悪な物質から高価な金属を作れるかもしれないと信じたのです。金と似たものを作るために行った操作と試薬の調整から、彼らは化学を探求し始めました。
けれども錬金術に入り込んでいた神秘思想が支配的になっていくにつれ、科学上の発見は4〜5世紀の間に東ローマ(ビザンティン)帝国では、ほとんど終息してしまいます。そして次の世界の覇者となったアラビア(イスラム)に移っていきました。
3. 古代シリア語への翻訳
5世紀のネストリウスは、シリアのアンティオキア学派に属するコンスタンティノープル大主教で、キリスト教ネストリウス派の祖とされています。キリストの神性は認めますが、人性を強調し、マリアを「神の母」と呼ぶことを拒否したために、初期キリスト教会で宗教論争(エフェソス公会議 431年)が起こりました。そしてギリシャ正教からネストリウス教団が分離し、彼らは小アジア(アナトリア)に追われました。
ネストリウス派はシリア、ペルシャ(イラン)で勢力を得ると、インドや7世紀の中国(景教)にも伝わりました。

ネストリウス教徒は、ギリシアの哲学者たちの論法を当時、ローマ帝国の属州にあったシリアで教えました。そうしてギリシア語の書物が、シリア語に翻訳されていったのです。ローマ帝国の衰退に伴い、西ヨーロッパが暗黒時代に陥ったときにも、多くのギリシアの貴重な文献は、幸いにもこの地で保存されていたのです。
4. アラビアの黄金時代
次にネストリウス教徒は、新興のアラビア帝国(イスラム帝国。エジプト・アラビア半島・ペルシャ。最大時にはイベリア半島・北アフリカも)と接触しました。そしてギリシアの一連の著書を、シリア語からアラビア語に翻訳しました。
他にもサンスクリット語や中世ペルシア語などの文献を、アラビア語に翻訳していきました。こうした気運は、すでにウマイヤ朝時代に兆しが見えはじめていました。
ウマイヤ朝の創始者の孫で、7世紀のハーリド・イブン・ヤジードは、ギリシアの錬金術の文献を訳す翻訳事業の先駆者でした。
訳業に従事した人々の多くは、長い間ギリシア文化の影響下にあったシリアの各都市や、メソポタミアなどの出身のキリスト教徒でした。
8〜11世紀までアラビア(イスラム)科学の黄金時代には、はじめ錬金術師がアレクサンドリアで工房にこもって実験に明け暮れたように、多くの医師と錬金術師が研究に取り組んで行ったのです。
知恵の館
830年、アッバース朝のカリフ、マームーンはバグダードに哲学、天文学、その他諸学の研究所として「知恵の館」(バイト・アルヒクマ)を設立して、ギリシア文献翻訳の本拠地としました。
その後のファーティマ朝も、カリフ・ハーキムの時代に同様の機関をカイロに設けました。哲学、天文学、医学のような非宗教的な諸学は、若干の卓越した者のみが専念したのですが、施設や経費を王侯たちが負担する必要がありました。
しかし病院が発達すれば臨床研究が行えることから、競い合って学者を保護していきました。それでも各々が孤立した状態なので、学徒が知恵を深めるためには、一つの場所にとどまらずに旅をしなければなりませんでした。そうしていくなかで、学術の中心地となっていった場所に続々と大学が誕生していくことになるのです。

左:フナイン・イブン・イシャク著『眼の中の問題』を抜粋した『眼の解剖学』の写本。9世紀のフナインは、シリア語とアラビア語に堪能で、翻訳の父と称され、知恵の館の責任者でした。またイスラム医学の基礎を築きました。イスラム以前の文化的なアラブ王国の首都であるアルヒラ出身で、ネストリウス派のキリスト教徒でした。
中:『アル・ハリリのマカマット』 「知恵の館の学者たち」画ヤフヤー・アル・ワシティ。写本1237年。アル・ハリリは、図書館の学者で詩人。マカマットというのは、アラビア文学のジャンルです。
右:ネストリウス派でシリア語を話したジャブリル・ブン・ブクティシュ『動物の特徴とその特性と臓器の有用性に関する医学書』 画「アリストテレスの教え」写本1220年。大英図書館の文書。

フワーリズミーは9世紀前半、アッバース朝のバグダードで活躍したイスラムの科学者です。特に数学と天文学の分野で偉大な足跡を残しました。アルゴリズムのの語源となった人物です。これは14世紀のアラビア語の写本でページには、2つの二次方程式の幾何学的解が示されています。
特に10世紀に入ると、ムスリムのなかからも、各方面に新機軸を出す学者が続々と現れ、イスラム学術の全盛期が現出しました。
この現象は12世紀入るとやや沈滞の色を示してやがて停滞期に入りました。これに代わって西ヨーロッパの文化が勃興し、イスラム世界は次第に取り残されることになります。長い夜の眠りから覚めて復興時代に移るのは、19世紀を待たなければなりませんでした。
興味深い現象はイスラムの学術がそろそろ停滞期に入ろとしていた12世紀に、シチリアや特にスペインのトレドを中心に、ラテン語への訳業が盛んになったことです。主力は哲学、医学、天文学などに注がれました。これが西ヨーロッパにおける近代学術の発達の大きな要因になったことは何人も否定できないと、ファルズ・ラフマン(訳:慶応義塾大学名誉教授 前嶋信次)がブリタニカ国際大百科事典に寄稿しています。
アリストテレスの四元素説
古代で最大の学問体系を樹立したアリストテレスは、イスラム圏で受容されました。
ギリシアで生まれた物質観に、エンペドクレスの説いた四大元素があります。これは火・水・空気・土の四つの元素で、ここに愛(結合)と憎(分離)が作用することによってこの世のすべての物質は構成されているとする説です。
アリストテレスはこの四元素説を発展させました。まず、すべての物質の根源にプリマ・マテリア(第一質料)という純粋な質料があって、そこに「熱・冷」の内のどちらかと、「乾・湿」の内のどちらかが組み合わさって火・水・空気・土の四元素ができるとしました。
例えばプリマ・マテリアに、「熱」と「乾」が組み合わさって火が、「熱」と「湿」で空気が、「冷」と「湿」で水が、「冷」と「乾」で土が生成されると考えたのです。
アリストテレスによれば、個物は、形相(けいそう。ある事象を他のものと区別させ、それを存在させるのに不可欠な本質的な存在構造。エイドス)と質料(生成における素材。ヒュレー)から成り立っているといいます。
アリストテレスは、四元素よりも、「熱・冷」「乾・湿」の相反する性質の組み合わせに重要な役割をもたせました。ですのでアラビアやヨーロッパで広く普及したアリストテレスの四元素説は、四性質説と呼ぶのがふさわしいのかもしれません。
アラビアの錬金術師は、このギリシア由来の四元素説の概念の元に、非常に複雑な混合率でどの物質をどれくらい混ぜ合わすと黄金に変性するのか、努力を惜しむことなくひたすらに取り組みました。
四元素と並び重要な理論として、硫黄、水銀、塩の三原質があります。なかでも硫黄と水銀は、錬金術の二大元素といってもいいほど重要なものでした。当時、硫黄と水銀は物理的物質ではなく、硫黄は土性と燃焼性、水銀は光沢と流動性の性質を意味していました。
アラビア(イスラム)世界は、インドや中国とも隣接していたことからさまざまな文化、伝統を吸収しました。錬金術のもう一つの研究テーマである不老長寿の薬の概念が、中国起源といわれるのにはこうした背景があります。
哲学はアリストテレスの祖述が主流をなし、プラトンも早くから研究されて新プラトン主義の著作も多く読まれました。
主だった学者
それではアラビアの多くの識者の中でも、錬金術に関連性の高い学者の一部を年代順にご紹介します。
1 ジャービル・イブン・ハイヤーン

ジャービル・イブン・ハイヤーン(ゲーベル:ラテン名)はヨーロッパ・キリスト圏の化学・学術にもっとも影響を及ぼした錬金術師です。彼の著作とされているものには後世の弟子たちが書いたものが多いので不明な点もありますが、12世紀頃、ラテン語に翻訳されて中世ヨーロッパに導入されました。
業績としては、化学、薬学の分野が顕著です。彼が発明したとされる塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法は、現在の化学工業の基礎になっているほどで、高度な明確さをそなえ、いささかの曖昧さもないものでした。
金などの貴金属を融かすことのできる王水(濃硝酸と濃塩酸が1:3の比率で混合された橙赤色の液体)も発明しました。またクエン酸、酢酸、酒石酸の発見者でもあり、科学にとって重要なアルカリの概念も生みました。また彼が改良したアランビック(蒸留器)は、現在も使われています。
2 キンディー

キンディー(アルキンドゥス:ラテン名 801 – 866)は、ギリシア哲学の継承から出て、独自の境域を開きイスラム哲学の基礎をつくりました。数学・暗号学・天文学・医学・音楽理論と百科全書的な業績を残したキンディーは、ペルシア人やシリア人が多い学者の中でアラブをルーツにすることから「アラブの哲学者」の敬称をもちます。
3 ファーラービー

アリストテレスに次ぐ「第二の師」と称えられた中央アジア付近出身と考えられているファーラービー(アルファラビウス:ラテン名 870 – 950)は、錬金術・哲学・数学・科学・音楽・心理(霊魂)学で功績をあげました。現在のアフガニスタン紙幣のほとんどは、ファーラービーの肖像です。
4 アル・ラーズィー(ラーゼス)

アラビア世界が生んだ世界の大学者アル・ラーズィー(ラーゼス:ラテン名 865 – 925)は、小児科学の父で、脳神経外科学と眼科学の開拓者でもありました。錬金術では、硫酸の研究を行ったことが知られています。エタノールも発見し、医学に用いるための精製も行いました。『天然痘と麻疹の書』はヨーロッパに大きな影響を与えました。
5 イブン・スィーナー(アビセンナ)

中央アジア出身のイブン・スィーナー(アヴィセンナ:ラテン名 980 – 1037)は、「第二のアリストテレス」と呼ばれました。当時は哲学と医学は密接な関係にありましたが、『治癒の書』『医学典範』は特筆に値し、ヨーロッパの医学、哲学に多大な影響を及ぼしました。錬金術の研究から精油の水蒸気蒸留法を確立し、新たな薬草、アルコールを使った腐敗の防止、脳腫瘍と胃潰瘍なども発見しました。激しい政治的な浮き沈みで、はしばしば身の危険にさらされる放浪生活を送りながらも、各地の宮廷で医師または宰相に任命されて仕えました。タジキスタンの20ソモニ紙幣は彼の肖像が使われています。
6 ガザーリー

ガザーリー(1158〜1111)は、最高学府だったバグダードのニザーミーヤの教授でした。ニザミーヤというのは、11世紀後半にセルジューク朝の宰相ニザームルムルクが各地に建てた学院です。その後、イスラム教スンニ派の神学者・思想家としてイスラム哲学を批判し、禁欲主義のスーフィー(イスラム教神秘主義哲学)となり、学者としての最高の地位を捨てて放浪の旅に出ました。
ガザーリーは、イスラムの神学・法学と神秘主義とを統合させ、『哲学者の矛盾』で哲学を攻撃して、正統的神学を再構成しました。

スーフィーは、羊毛(スーフ)でできた粗衣をまとう者という意味で、9世紀以降に生じたイスラム教の世俗化・形式化を批判する改革運動です。修行によって自我を滅却し、忘我の恍惚の中で神との神秘的合一を究極的な目標とします。
アラビア黄金期を確立した錬金術に関連する一部の学者を挙げました。アレクサンドリアからシリア経由でアラビアに継承されて発展した諸学は、ここから次の時代の覇者、西ヨーロッパに流入されていくことになります。
次回、【第三章 錬金術(キミア) – 西ヨーロッパへの流入 記憶術・結合術】に続く