
「大事なのは、未知のものを既知のものにすること」。これは『オキーフ』 – あるアメリカ神話の誕生 - のエピグラフ(題辞)ですが、わたしは本棚からオキーフの家とニューメキシコの風景を撮影した写真集トッド・ウェッブ『GEORGIA O’KEEFFE THE ARTIST’S LANDSCAPE 』を久方ぶりに取り出しました。もうずっと書棚から出していないので、函 (はこ)からなかなか出てこないのをなんとか引っ張り出すと、プーンとカビ臭い匂いがしました。
オウ体験に相応しい場所を考えていて、頭に浮かんだのです。オキーフの終の棲家(ついのすみか)、ニューメキシコの砂漠が。本を開くと一枚一枚の写真が、置き忘れてきた大事なことを思いださせてくれました。


わたしがオキーフに憧れつつ暮らしていたのは、今から30年ほど前のことです。
わたしは子供を産んでから、長野県伊那市の廃村、芝平(シビラ)の別荘に頻繁に通うようになりました。 五反田の池田山とシビラを行き来しながら子育てに勤しみました。都会だけでは息が詰まりそうだったからです。
そうしているうちにますます自然志向になって行きました。現代社会の煩わしさから解放され、自然の懐に抱かれて太陽とともに寝起きし、心が解放されてゆくのを感じました。不便な暮らしが、新鮮で心地よくさえ思えたのです。時間に縛られず、ゆったりと暮らし、それは誰に憚れるものでもありませんでした。
お茶一杯を啜るのに、電気ポットで沸かしておけば、すぐに喉の渇きを潤わすことができます。でも、シビラでの日々では山から引いた水を鉄瓶に汲み、炭火でフツフツと湧くのを待つのです。そうして沸いた湯で茶器を温め・・・というような手間がいるのですが、それを待つ間というのはなんとも贅沢な一時でした。それは一服の茶に与るためのセレモニーです。囲炉裏を囲んで座して、開け放った窓から吹き込む風に季節を感じ、目の前に広がる山並みを眺めて待つその間(あわい)。聞こえるのは鳥の声のみ。なんとも穏やかなささやかなしあわせ。けれどもそれ以上に望むものは何もありません。そうした満ちたりた暮らしを送っていました。刻々と移り変わる自然という名の美に魅せられて、過ごしていました。
けれども子供が小学校に上がってから生活が一変し、なかなか行く時間が取れずに段々に足が遠のいていきました。そしていつの間にかすっかり都会生活に慣らされて、窮屈な生活に戻っていったのです。こうした生活がもうずっと続いていて、断片的に脳裏に浮かぶことはあっても、記憶を深く探らないとシビラの日々は甦ってきません。現在はだいぶ距離の隔たった暮らしをしています。でも時折、人間に寄り添った自然に包まれた暮らしを取り戻すべきかと、思うことが多くなっている今日この頃です。
わたしがオキーフに心を掴まれるのは、作品以上に画家の住まいと生き方でした。
目次
画家を目指して
アーサー・ウェズリー・ダウへの感応・ジャポニスム
フェノロサ・ダウ方式
291ギャラリー
オキーフ スタイルの確立
スティーグリッツとの結婚と別離
砂漠の巫女
画家を目指して
ジェフリー・ホグリフ著『オキーフ』の本の帯に書かれた文字です。
多くの点で、オキーフの生涯は、アメリカならではの成功物語である。テキサス群パンハンドル地方の一介の学校教師が、今世紀(20世紀)のアメリカで最も有名な女流画家となる。その話は人の心を打つ。逆境をのりこえ、できるかぎりの努力を重ね、マイナスを転じてプラスにする ー それがオキーフの生涯のサブテーマであり、それだけで十分に価値のあるものだ。だが、その根底に低く響いているのは抑圧されたホモセクシャリティ、近親相姦によって誘発された怒り、狂気、強要、欺瞞といったさらに重いテーマである。
オキーフの略歴を記しておきます。
ジョージア・トット・オキーフ 1887年〜1986年

「蘭」、この作品のように拡大された花の絵で知られるオキーフは、アメリカのモダニズム絵画の女性の先駆者です。
アイルランド系の父親は酪農家でした。母親はハンガリー系の移民で、祖父は伯爵でした。米国ウィスコンシン州サンプレーリーで誕生したオキーフは、7人兄弟の2番目の子で長女でした。姉妹の2人も祖母も画家でした。
本格的には1905年、アート・インスティテュート・オフ・シカゴの美術部で研修を開始し、その後、ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグに入学し、高い学費を払うのに、同じ学生相手の絵のモデルをして不足を補いました。けれども写実的な技法を習うことに不満をつのらせていました。
アーサー・ウェズリー・ダウへの感応・ジャポニスム
イラストレータとして2年間働いた後、1911〜1918年まで幾つかの州で教鞭をとって資金を得ながら、その間の1912〜1914年の夏、コロンビア大学ティーチャーズカレッジでアーサー・ウェズリー・ダウから美術教育を受けました。オキーフの抽象的な手法は、このダウの方法を発展させたものです。


ダウは浮世絵に影響を受けましたが、その画法はオキーフに多大なインスピレーションを与えました。ダウは、アーネスト・フェノロサとの接触によって新しいテクニックを開発したのです。それは東洋の技法を取り込むことによって生み出されました。
フェノロサ・ダウ方式
フェノロサは、岡倉天心とともに近畿地方の古社寺宝物調査を行い、東京美術学校の設立にも尽力した「お雇い外国人」です。当時の日本は西洋に倣うことに夢中で、そのまま進めば日本の伝統文化を捨ててしまう恐れが生じていて、その瀬戸際まで、西洋文明に心酔していました。それが原因で、日本の多くの重要な美術品は二束三文で国外に流失してしまったのです。フェノロサは天心とともに日本美術の再確認とこれから目指すべき指標を示し、国宝の概念を定めて日本美術を養護し危機から守りました。
一方の西洋では、ジャポニスムが一大ブームでした。西洋絵画における写実的な技巧とは対照的な簡略化された大胆な力強さ、余白の美、線描の強弱、左右非対称、簡素によって生じるのびやかさ、浮世絵に代表される庶民的な愛好の気楽さといったもののなかに内在する志向の奥行きなど、ダウは日本の様式美に魅了されていました。そうしたおもいのもとに、帰国してボストン美術館の日本美術のキュレーターを務めていたフェノロサを訪ねたのです。
このような経緯から「フェノロサ・ダウ方式」が生まれました。19世紀末ごろ、アメリカではジャポニスムが隆盛を極めていました。その潮流から20世紀初頭には、フェノロサ・ダウ方式という抽象性が高く主題や目的を誇張した手法、濃淡を均一的にほどこす筆遣いなど、日本流をとり入れた美術教育が生み出されました。そしてアメリカで実施されていたのです。


291ギャラリー

291ギャラリーは、写真家で、のちにオキーフの夫となるアルフレッド・スティーグリッツが、ニューヨークの5番街291番地に開設した画廊で、1916年、オキーフの初の個展が行われた場所です。
画廊は当初は、技巧的な写真手法の一つピクトリアリスムを標榜するフォト・セセッションという名の写真家グループのためのものでした。
アバンギャルドな絵画や彫刻なども扱うようになると、モダンアートの聖地として有名になりました。その後、アメリカンアートは世界を引率していきますが、その運動に多大な影響をもたらした源泉だったのです。セザンヌやピカソの米国での最初の個展が開かれたのも291でした。世界大戦を避けてヨーロッパから移住したデュシャンやピカビアなど前衛芸術家を積極的に紹介し、ニューヨーク・ダダの活動拠点でもありました。
オキーフ初の個展は、彼女にとってまったく予期せぬ出来事でした。スティーグリッツはオキーフに無断で作品を展示したのです。作者である本人も知らなかったのです。人生には図らずにおきる運命的な巡り合わせというものがありますが、これはまさにそれです。でもそれもまた必然のなせる技だったのかもしません。
かいつまんで言えば、オキーフは親しい仲間のポリッツァーと郵便でひんぱんにスケッチのやりとりをしていました。ポリッツァーの感想は、自分のしていることが不安に思えるときの貴重な指針となったからです。オキーフはスケッチを誰にも見せないでほしいと念を押していましたが、ポリッツァーはテキサスの平原で過ごした年月から生まれた木炭の抽象的な風景画を見たとき、なんとしてでもスティーグリッツに見せるべき、と思いました。
アフリカ部族民の彫刻や精神障害の患者の作品、子供の描いた絵などを情熱を持って紹介していたスティーグリッツが求めているのは、画家の内面にある魂の真実を描いた作品だとポリッツァーには分かっていたのです。
ポリッツァーはスケッチをスティーグリッツに差し出しました。スティーグリッツはそれを受け取ると、まるで長いこと探し求めていた謎の答えを見つけたかのように思わず声を上げました。「ついに女の感情が絵になったか!」。それは未知のものが、既知のものに生まれ変わった瞬間でした。

その後、スティーグリッツは、ニューヨークに拠点を移すようにオキーフに働きかけました。それは1918年に実行され、彼は彼女をバックアップしました。こうしてオキーフは美術教師からアーティストとして独立することがかない、女流画家として確固たる地位を築いていく道が開かれたのです。





オキーフ スタイルの確立
オキーフは「女流」を付けられるのを心底嫌いました。100年前には、男と女は平等ではなかったのですから、それは今日から見れば、先進的で的を得た主張だったとわかります。
オキーフは生涯に2000枚近い絵を描きました。そのうちの200枚くらいは花を描いています。オキーフの花は、単純に美を求めるためのものではありません。本来の花は、色や香りもさることながら、可憐で小さい姿に愛おしさが感じられ心のオアシスで癒しともなります。巨大な花に美を見出すことは通常では見られません。けれどもオキーフの花はどれもクローズアップされた巨大な姿で、大胆な構図の中に簡略化されて収められています。かつてそのような花の絵は、メソポタミアやエジプトに遡ってでも、どこかに存在したでしょうか。「大事なのは、未知のものを既知にすること」と語ったオキーフの言葉通りに、新たな境地が創造されたのです。
しかし筆やカルトンのタッチは実に繊細です。1920年代から1930年代初頭に人気が高まったプレシジョニズムに見られるように、濃淡と陰影で丸みが帯びていて、画布全体は穏やかにまとめられています。決した荒々しいものでも攻撃的なものでもありません。プレシジョンスタイルでは、当時の新しい時代の造形物、高層ビルや工場の煙突などをモチーフにした作品が多く描かれ、手法から「キュビズム的なリアリズム」とも呼ばれました。オキーフもビルを何枚か描いています。
https://isak.typepad.com/isak/2012/07/the-urban-paintings-of-georgia-okeeffe.html
スティーグリッツとの結婚と別離
スティーグリッツ60歳、オキーフ37歳。スティーグリッツの離婚が成立し、6年の同棲を経た二人は結婚しました。1924年のことです。ところが翌年、新しいギャラリーを開設したスティーグリッツは、その運営を手助けしていたドロシー・ノーマンと恋愛に陥ったのです。

泥沼から逃れるように、オキーフはニューメキシコへと導かれていきます。オキーフの伝説はこうしてはじまるのです。
オキーフは女性として金銭的に大成功を収めた最初のアーティストです。「ジムソンウィード」(1932年作)は、2014年11月20日、ニューヨークのサザビーズで競売にかけられ、4440万5千ドル(約52億2千万円)で落札されました。

ちなみにタイトルの聞き慣れない名、ジムソンウィード(バージニア州ジェームズタウンの毒草)は、白いラッパ型の花の名前です。朝顔のように見えますがナス科の植物の一種です。麻酔や鎮静作用があるので古代から活用されていますが、幻覚作用や意識障害を引き起こす毒性が有り、なめただけでも危険といわれています。
砂漠の巫女
「禁欲的」、この言葉はどうでしょうか。「禁欲」は美の代名詞です。豪奢な美には恨みや妬みがつきまとうけれど、無欲の美にはそれは皆無です。
オキーフの禁欲的な性質は、はじめからこの女性の源にあって、荒野にひとりで立っている画家のただ一つの武器だったのではないかと感じられます。


オキーフの潔癖な性格を象徴しているエピソードをときおり思い出すのですが、どこで読んだのかは覚えていません。スティーグリッツの生家での出来事だったと思います。オキーフは調度品の彫像が気に入らなくて、こうじた策がいけてるのです。どうしたかというと、穴を掘って埋めてしまったのです。










オキーフの終の棲家は、ニューメキシコのゴーストランチとアビキューの二つの家でした。土埃の乾風が舞う見知らぬ土地にひとりで最終の30年を暮らしました。
オキーフは1972年から黄斑変性症に悩まされていました。視野の中心部分が暗くなる、あるいは中心がゆがんで見えるのが特徴の眼病です。それでも鉛筆と木炭で制作を続けました。
亡くなるまでの13年間は、アシスタントで彫刻家のフアン・ハミルトンが共に暮らして生活の一切をサポートしました。オキーフはハミルトンに粘土の手ほどきも受けました。弟あるいは息子、精神的には恋人のように信頼して暮らしたのです。
体が弱まってきたことから1984年、オキーフはサンタフェに移り、1986年3月6日に98歳で亡くなりました。体は火葬され、遺灰は彼女が望んだようにゴーストランチ周辺の土地に散布されました。
オキーフは遺産の7600万ドルをほとんどハミルトンに遺したので、最終的には和解に至りましたが血縁者から訴訟をおこされもしました。
これまでわたしはオキーフの家は、トッド・ウェッブの写真集で眺めていただけだったので、土埃の砂漠にひっそりと佇む画家、慎ましく、虚飾を削ぎ落とした女性といった姿に、孤高の巫女的なイメージを膨らませてきました。それは今も変わらないのですが、動画を見つけて観てみると、モノクロの世界観の中でだけ見ていた想像していたよりもずっと現代的でモダンな生活ぶりを発見しました。厳格でとりつくしまのない人間などではなく、通常とさほどの大差はない普通の人の形容を見出しました。とは言っても、僻地で、周りからは相当に風変わりに映ったことは確かでしょうけれど。でもそれが芸術家の芸術家たる所以でもあります。芸術家は得てして人付き合いが得意な人種ではありませんし、自分を頑なに守って譲らない人種で、束縛されない独自の生き方を選び、自分自身が作品そのものでもあるのです。ニューメキシコにオキーフは自分の生まれ故郷を重ね合わせていたのです。
生前、国から名誉ある賞をいくつも授与されましたが、それはオキーフにとって意味を持っていたでしょうか。オキーフはまるで隠者のように暮らしました。男女間の問題はオキーフの精神に毀傷(きしょう)をもたらしたこともありました。そうした一切の経験を風化させるかのように、世間に惑わされずに、本来の姿でいられる地にたどり着いた意志の女性、それが沈黙するオキーフの実在だったと思えるのです。
トップ画像:『アブストラクションブルー』1927年 材質:キャンバスに油彩 寸法:40 1/4 x 30 (102.1 x 76 cm) クレジット:ヘレン・アチェソン遺贈 オブジェクト番号:71.1979 著作権:©2021ジョージアオキーフエリア/カリフォルニアツソサエティ(ARS)、イタリア 部門:絵画と彫刻 5階、509 MoMA所蔵
参考文献
『オキーフ』あるアメリカ神話の誕生 ジェフリー・ホフリグ著 野中邦子訳 平凡社
GEORGIA O’KEEFFE THE ARTIST’S LANDSCAPE PHOTOGRAPHS BY TODD WEBB TWELVETREES PRESS